1. 静かな欠落
僕の人生から、ある日突然「意味」という名の重石が外れてしまった。
それまで世界を繋ぎ止めていた細い糸――例えば、朝食のトーストを焼く匂いや、地下鉄の定期券の有効期限といったもの――が、音も立てずにプツリと切れたのだ。代わりにやってきたのは、壁の向こう側から聞こえる囁き声と、色彩が過剰に飽和した夢のような現実だった。
医師はそれを「統合失調症」という名前のラベルで呼んだ。まるで、中身のわからない古いジャムの瓶に貼るシールのようだったけれど、僕にとってはもっと実体のある、例えば「終わることのない深海への潜水」に近いものだった。
僕の部屋の壁には、時折、巨大な耳が現れる。それは僕が何を考えているかを熱心に聞き取ろうとしている。あるいは、近所の公園にある青いプラスチックの回転木馬が、夜中にこっそり僕の枕元までやってきて、かつて失われた言葉を蹄の音で刻んでいく。
「君、それは少し考えすぎだよ」
ある日、冷蔵庫の上に座っていた体長三十センチほどの小さな羊男が僕に言った。彼はドーナツを齧りながら、器用に足をぶらつかせている。
「世界がバラバラになるのは、世界が君を拒絶しているからじゃない。ただ、世界のネジが一本、どこかの溝に落ちてしまっただけなんだ。よくあることさ」
「でも」と僕は言った。「ネジがないと、僕はどこにも行けない」
「行かなくていいんだよ」と羊男は言った。「ここにいればいい。ただ、正しくここにいることが大切なんだ」
2. 井戸の底の静寂
僕は、自分の中に「深い井戸」を掘ることに決めた。
村上春樹風に言えば、それは意識の深い階層へと降りていく作業だ。現実の世界はあまりに騒がしく、悪意に満ちた電波や、僕を監視する眼差しで溢れている。だから僕は、暗闇の中に避難所を作る必要があった。
井戸の底は驚くほど静かだった。そこには、僕がこれまでに失ってきたすべてのものが整然と並べられていた。小学校の時に失くした消しゴム、名前も知らない遠い親戚の形見の時計、そして、かつて僕が持っていた「確かな自分」という感覚。
統合失調症という病は、世界との境界線が溶けてしまう病だ。
自分と他人の区別がつかなくなり、テレビのニュースキャスターが僕だけに特別なメッセージを送り、道ゆく人の咳払いが僕への審判になる。
「それはね」と、井戸の底で出会った一角獣が僕に言った。「君の心が、あまりに優しすぎるからなんだ。世界中のすべての音を、君は自分のこととして受け止めてしまう。雨が降れば、君は雨粒の一つ一つになって地面に叩きつけられる。それはとても疲れることだろう?」
僕は一角獣の滑らかな銀色の毛に触れた。その冷たさが、僕の火照った意識を鎮めてくれた。
「どうすれば、僕は僕に戻れるんだろう?」
「戻らなくていいんだ」と一角獣は答えた。「君はただ、自分の中に『静かな部屋』を持てばいい。外側で嵐が吹き荒れていても、誰かが君の悪口を囁いていても、その部屋の鍵だけは君が持っている。そこには、カセットテープから流れる古いジャズと、少しだけ冷えた白ワインがある。それだけで十分だ」
3. 羊男の調律
僕は毎日、決まったルーチンを繰り返すことにした。
朝起きて、丁寧にコーヒーを淹れる。トーストを焼き、レタスを洗う。洗濯機が回る規則正しいリズムに耳を澄ませる。
統合失調症という混沌に対抗する唯一の武器は、こうした「平凡な儀式」の積み重ねだ。
「いいかい、調律が大事なんだ」
羊男が再び現れて言った。今度は僕の古いタイプライターを掃除している。
「君の頭の中のラジオは、ときどき変な周波数を拾ってしまう。宇宙からの通信や、地底人の陰謀論や、死んだ祖母の予言。それらは確かに聞こえるけれど、それはただの『ノイズ』なんだ。音楽じゃない。君は、自分の指先で、自分の好きなレコードに針を落とさなきゃいけない」
「でも、どれが本物の音かわからないんだ」
「本物かどうかなんて、大した問題じゃない」と羊男は肩をすくめた。「君が心地よいと感じるか、君がその音で呼吸ができるか。それがすべてだ」
僕は目を閉じた。
壁の向こうの囁き声は、まだ消えていない。
「あいつは失敗作だ」「監視されているぞ」「窓の外を見ろ」
それらの声は、まるで霧のように僕の周りを取り囲む。
でも、僕はその霧の中に、自分だけの「青いプラスチックの回転木馬」を幻視する。
それはゆっくりと、優雅に回り始める。
僕はその木馬の背中に乗り、手綱を握る。
4. 境界線を歩く
世界は変わらなかった。
病院へ行けば薬を処方されるし、社会の隅っこで僕は静かに暮らしている。
ときどき、どうしても重力がおかしくなって、天井が床になり、床が底なし沼になる日もある。
けれど、僕はもう、その混乱を恐れていない。
村上春樹の物語の主人公たちがそうであるように、僕もまた「あちら側」と「こちら側」の境界線を歩き続ける。
「あちら側」には、僕を飲み込もうとする闇と幻聴がある。
「こちら側」には、冷めたコーヒーと、期限切れの光熱費の請求書がある。
僕はその両方を引き受けて生きることにした。
狂気とは、もしかしたら「純粋すぎる現実」のことなのかもしれない。
あまりにも純粋すぎて、防護壁のない魂が焼き切れてしまうような、そんな。
「救いっていうのはね」
井戸の底で、一角獣が最後に言った。
「光が差し込むことじゃない。暗闇の中にいても、自分がどこに座っているかがわかることなんだ」
僕は頷いた。
窓の外では、また静かな雨が降り始めている。
僕はキッチンへ行き、新しい水を沸かす。
壁の耳は相変わらずそこにあるけれど、僕はそれに「こんばんは」と心の中で挨拶をした。
僕は狂っているのかもしれない。
あるいは、世界の方が狂っているのかもしれない。
でも、そのどちらでもいいのだ。
僕は僕の井戸を持ち、僕の羊男と語り合い、僕の回転木馬を回し続ける。
完璧な静寂なんてどこにもないけれど、僕の淹れたコーヒーは、今日も少しだけ苦くて、温かい。
それが、僕にとっての「救い」という名の、ささやかな調律だった。
あなたへ(あとがきに代えて)
この物語は、あなたが感じている「世界のズレ」を否定しません。
村上春樹の世界では、壁を通り抜けたり、空から魚が降ってきたりすることは「異常」ではなく、一つの「現象」として描かれます。
統合失調症という体験も、一つの過酷な「冒険」あるいは「探索」のような側面があるのかもしれません。
あ
関連記事
【小説、詩】
2024年11月12日
わたしたちという庭の木(2)
わたしは街を歩いている。人々もまた街を歩いている。太陽が雲から出たり入ったりして、変化の続く街をよりいっそうきわだたせている。駅の近くで友人を見かけた。声をかけようとすると、友人は足早にどこかへ入って行った。古びたビル…
【小説、詩】
2024年10月29日
空白のイデア(19)
佐藤は聞いている。音楽が流れている。ベッドに座ってスマートフォンから流れる音をじっくりと聞いている。ドアをノックする音がする。一人の男が入ってくる。鈴木だ。いや、かつて鈴木だった人と呼んだほうが良い。彼の姿はもはや彼女…