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小説【質感】

朝、目が覚めるとき、まず天井の染みが見える。
四角い部屋の白い天井に、薄茶色の染みがひとつ。雨漏りの跡か、あるいは前に住んでいた誰かの記憶か。彼はいつもそれを五秒ほど見つめてから、自分がどこにいるのかを確認する。ここは自分の部屋だ。今日は存在している。それだけを確かめて、目を閉じる。
布団の重さが、体の輪郭を教えてくれる。綿の詰まった重み。肩のあたりがすこし蒸れて、湿っている。それが不快かどうか、しばらく考える。不快、かもしれない。でもそれは自分が体を持っているという証拠でもあるから、悪くない、と思うことにする。
起き上がるまでに、三十分かかることもある。今日は二十分だった。
台所に立つと、床のリノリウムが足の裏に冷たい。冬の朝のその冷たさは、毎回すこし驚くほど鋭くて、彼は毎回その鋭さに少しだけ助けられる。頭の中でぐるぐると回っていた何かが、その冷たさで一瞬止まる。床は冷たい。今は朝だ。自分は台所に立っている。
薬を飲む。錠剤が三つ、カプセルがひとつ。コップの水は昨夜から汲んでおいたもので、すこしなまぬるい。飲み込むとき、喉の奥でかすかに引っかかる感触がある。それが毎朝のことだから、もう気にならない。引っかかりも、習慣になる。
コーヒーを淹れる。
ドリッパーに粉を入れ、細口のケトルから湯を注ぐ。最初の一投、粉が膨らむ。その膨らみを見ているとき、彼は呼吸をしている自分に気づく。胸が上がって、下がる。湯気が細く立ち上る。コーヒーの匂いが広がる。香ばしくて、すこし苦くて、どこか遠い場所の土の匂いがする。
悪い日には、この匂いが何も感じさせない。ただの匂いとして鼻を通過するだけで、何の感情も呼び起こさない。
今日は、悪い日ではないようだった。
マグカップを両手で包む。熱が手のひらから伝わってくる。その熱を感じながら、窓の外を見る。空は白い。雲が低い。風があるのか、電線がわずかに揺れている。木の枝が揺れている。揺れ方を見ていると、風がそこにあることがわかる。見えないものが、見えるものを動かしている。
彼は、病気のことをずっとそのように理解してきた。見えない何かが、見えるものを動かす。体が重くなる。何もできなくなる。泣きたいのに泣けない日と、理由もなく泣ける日が交互にやってくる。薬を飲み続ける理由も、やめたくなる理由も、両方、見えないところから来る。
コーヒーをひとくち飲む。
舌の上で広がる苦みと、その奥にある甘み。温度が食道を下りていく感覚。胃のあたりに熱が落ちる。その一連の感覚を、彼はゆっくりと追いかける。追いかけることが、今日の最初の仕事だった。
昼前に、外へ出た。
特に目的はなかった。ただ、外気に触れないと体がどんどん内側に向かっていく気がして、それが怖かった。靴を履くとき、靴紐を結ぶ指がすこしだけ震えていた。震えていても、結べた。それでいい。
外は寒かった。頬に当たる空気が乾いていて、鼻の奥がつんとした。呼吸のたびに、冷たい空気が肺に入ってくる感触がある。それを感じながら歩く。歩道のアスファルトは、場所によって色が違う。新しく舗装されたところは黒くて、古いところはグレーで、ところどころにひびが入っている。ひびの隙間から、何かが生えている。草か、コケか、よくわからない小さな緑。
踏まないようにして歩く。
公園に入ると、砂利を踏む音がした。じゃり、じゃり、と規則的な音。その音が、歩くたびに足の裏から伝わってくる振動とぴったり合っていて、彼はしばらくその一致に集中した。音と感触が同時に来る。当たり前のことなのに、それが不思議だと思えるのは、調子がいい証拠だった。
ベンチに座る。
木製のベンチは、日向と日陰の境目にあった。右半分が温かく、左半分が冷たかった。どちらに体を傾けるでもなく、ちょうど境目に座って、その温度差を背中で感じた。右側がじわじわと温かい。左側がひんやりとしている。自分の背骨が境界線になっているようで、すこしおかしかった。
笑いはしなかったけれど、笑いたい気持ちが来た。
それだけで十分だった。
帰宅すると、部屋に西日が入っていた。
オレンジ色の光が、床に細長い四角を作っていた。その四角の中に、ほこりが浮いているのが見えた。空中に浮かんだほこりが、光の中でゆっくりと動いている。特に風もないのに、ほこりは動く。呼吸のせいかもしれない。自分が息をするたびに、世界がすこし動く。
彼はその光の四角の中に、手を差し入れてみた。
手のひらが温かくなった。
その温かさが、じわじわと指先まで広がっていくのを感じながら、彼は思った。今日一日、自分は感じることができた。床の冷たさを、コーヒーの熱を、砂利の振動を、ベンチの温度差を、そしてこの光を。全部感じることができた。
価値があるかどうかは、まだわからない。
でも感じることができた。それは確かだった。
夕方の光の中で、彼はしばらくそのまま立っていた。手のひらを光に向けたまま、目を閉じた。まぶたの裏がオレンジ色に染まった。その色は温かくて、やわらかくて、責めてくるものが何もなかった。
明日も薬を飲む。明日も床が冷たい。明日もコーヒーを淹れる。
それでいいと、思えた。
それでいい。

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