壁の中の声
一
壁が話す。
それは比喩ではない。
木造アパートの薄い壁が、夜になると低く唸り始める。最初は空調の音だと思っていた。でも空調を切っても止まらない。耳を塞いでも止まらない。骨の中を通って、直接、脳に届く。
「お前は終わりだ」
「全部知ってるぞ」
「逃げても無駄だ」
森田哲也、四十三歳は、布団を頭から被って膝を抱えている。今夜で三日目だ。眠れていない。食べていない。処方薬の瓶は空になった——いつ飲み切ったのか、もう覚えていない。
声は優しくない。映画に出てくる幻聴のように、神秘的なメッセージを告げたりしない。ただひたすら、彼を傷つけるための言葉を選んで、繰り返す。
お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。
何が?と聞きたい。でも聞けば、もっと詳しく教えてくれる。それが怖い。
二
病気になる前の哲也のことを、哲也自身はもうよく覚えていない。
三十五歳まで、建設会社で働いていた。酒が好きで、同僚とよく飲んだ。笑い方がうるさいと言われた。彼女もいた。
それが全部、音を立てて崩れていったのは、あっという間のことだった。
最初の入院は、上司が自分の悪口を言っているという確信からだった。確信だった。疑いではなく。会議室で彼らが小声で話すたびに、それは自分のことだとわかった。証拠があった——彼らの視線、咳払いのタイミング、コピー機の紙詰まりさえも、自分への嫌がらせに思えた。
「妄想です」と医者は言った。
妄想という言葉が憎かった。あれほど確かだったものが、薬を飲んだら霧散した。それは安堵ではなく、恐怖だった。自分の確信がこんなに簡単に消えるなら、今感じていることも全部、偽物なのか。
地面が消えた感覚だった。
三
今、一番つらいのは声ではない。
副作用だ。
抗精神病薬を飲むと、頭に綿が詰まったようになる。考えが遅くなる。本を読んでも、一行を三回読んでようやく意味がわかる。それでもわからないことがある。
手が震える。足が落ち着かない。じっと座っていられない——でも動く気力もない。その矛盾した苦しさの中で、一日に何時間も床に転がっている。
体重が十五キロ増えた。鏡を見るのをやめた。
薬を飲むと声が遠くなる。でも「自分」も遠くなる。笑えない。泣けない。昔好きだった音楽を聴いても、音が耳を通り過ぎるだけで、何も感じない。
飲まなければ声が戻る。飲めば、自分が消える。
どちらがましか、と哲也は三日に一度は考える。
四
外に出られなくなって、八ヶ月になる。
コンビニに行こうとしたのは、二ヶ月前が最後だ。自動ドアを抜けたところで、店内の音楽と蛍光灯と、レジの店員の視線が、一斉に彼に向かってきた。全員が彼を見ていた。壁の防犯カメラが動いた。そのとき確信した——ここは罠だ、と。
走って帰った。息が切れて、アパートの階段で崩れ落ちた。
それ以来、食料は出前館だ。でも配達員が来るたびに、ドアの前で十分以上、呼吸を整えなければ開けられない。先週は結局開けられず、食事が玄関前に置かれたまま夜になった。
母親が月に一度、電話をくれる。「元気?」と聞く。
「元気」と答える。
それ以外の言葉を持っていない。「壁が話す」と言ったら、彼女はどう反応するだろう。心配するだろう。でも心配されることで、自分がどれほど壊れているかを、改めて確認させられる。それが怖い。
だから「元気」と言う。
五
夜明け前が一番ひどい。
声が最も大きくなる時間帯だ。壁だけでなく、天井から、床の下から、自分の口の中から聞こえてくる。
お前は人に迷惑をかけている。お前が生きているだけで周りが傷つく。
哲也はそれが症状だとわかっている。わかっている——頭では。でも「わかっている」と「感じていない」は、別のことだ。
理性は「これは病気だ」と言う。でも声は理性より大きい。
台所の引き出しに目が行くことが、たまにある。そのたびに哲也は布団に戻って、顔を埋める。引き出しを開けないために、全力を使う。
翌朝、主治医に電話する——それが決まりだ。自分で決めたルール。
でも電話口で何を言えばいいか、いつもわからなくなる。「昨夜、引き出しを見ました」と言えたためしがない。
「変わりないです」と言って、電話を切る。
六
それでも朝は来る。
灰色の光が、カーテンの隙間から差し込んでくる。声は少し遠くなる。昼間は、夜ほどひどくない。
哲也は空の薬瓶を見つめる。今日、取りに行かなければならない。処方箋は先月から手元にある。クリニックは歩いて七分だ。
七分。
彼は起き上がり、冷たい水で顔を洗う。鏡は見ない。
靴を履く。ドアノブを握る。
外の空気が、思ったより冷たくない。
七分を、五十分かけて歩く。途中、公園のベンチで三回休む。すれ違う人が全員こちらを見ている気がする。でも哲也は歩く。転ばないように、地面だけを見て。
薬局の窓口で、処方箋を差し出す。
「少々お待ちください」と、若い薬剤師が言う。
哲也はプラスチックの椅子に座って、手を膝の上で組む。
声が、遠くでまだ何か言っている。
でも今日は、ここまで来た。
それだけが、今日の全部だった。
了