彼は何気なくコーヒーカップを手にとった。中には熱いコーヒーが入っている。近所のコーヒー店で買ったものだ。
そのコーヒー店は駅から三分ほど歩いたところにある。看板もなく、入り口の小さなガラス窓に手書きで「COFFEE」とだけ書いてある。彼がそこに通い始めて、もう三年になる。毎週水曜日の午前十時、彼は決まってそこでブレンドコーヒーを注文する。店のマスターは六十代半ばくらいの男性で、いつも白いシャツを着ている。彼らは必要最小限の会話しかしない。「ブレンドで」「はい」。それだけだ。
彼はコーヒーを一口飲んだ。いつもと同じ味だ。苦味と酸味のバランスが絶妙で、後味がすっきりしている。彼はこの味を、自分の水曜日の一部だと感じていた。
窓の外では雨が降り始めていた。十一月の雨は冷たく、灰色の空から容赦なく降り注いでいる。彼はテーブルの上に置いた文庫本を開いた。チャンドラーの『長いお別れ』だ。もう何度目かわからないくらい読み返している。ページをめくりながら、彼はふと、自分がいつからこんな生活をしているのだろうと考えた。
三年前、彼は会社を辞めた。特別な理由があったわけではない。ただ、ある朝目が覚めたとき、もうあの場所には戻れないと確信したのだ。それは理屈ではなく、体の奥底から湧き上がってくる感覚だった。彼は上司に電話をかけ、簡潔に辞意を伝えた。引き止められることもなく、二週間後には会社との関係はすべて清算された。
それから彼は翻訳の仕事を始めた。主に技術文書の英訳だ。収入は会社員時代の三分の一程度だが、生活するには十分だった。彼には養うべき家族もなく、特別な趣味もない。必要なのはこの小さなアパートの部屋と、週に一度のコーヒーと、時々読む本くらいだった。
「すみません」
突然の声に、彼は顔を上げた。目の前に若い女性が立っている。二十代後半くらいだろうか。黒いレインコートを着て、濡れた髪を後ろで束ねている。
「この席、空いていますか」
店内を見回すと、確かに空いている席は少ない。雨のせいで、いつもより客が多いようだ。
「どうぞ」
彼はそう言って、対面の椅子を引いた。女性は小さく会釈をして座った。彼は再び本に目を落とした。
しばらくして、女性が口を開いた。
「あの、失礼ですが、その本、面白いですか」
彼は本から目を離し、彼女を見た。彼女の目は真剣で、社交辞令で話しかけているようには見えなかった。
「何度も読んでいます」と彼は答えた。「読むたびに、新しい発見があります」
「私も好きなんです、チャンドラーの小説」女性は微笑んだ。「特に『長いお別れ』は。ギムレットのくだりが好きで」
「ギムレットには早すぎる、ですね」
「そう、それです」
彼らは少しの間、チャンドラーについて話をした。マーロウという探偵について、ロサンゼルスの夜について、翻訳の違いについて。彼は気づいた。彼がこんなに長く誰かと会話をするのは、何ヶ月ぶりだろうか。
「私、実は探しているものがあるんです」女性は突然、真面目な顔になった。「猫なんですけど」
「猫?」
「ええ。三日前から行方不明なんです。名前はマーロウ。チャンドラーから取った名前です」
彼は思わず笑いそうになったが、女性の表情があまりにも切実だったので、笑いを堪えた。
「どんな猫ですか」
「灰色のオス猫です。左耳に小さな傷があります。このあたりで見かけませんでしたか」
彼は首を横に振った。「残念ですが、見ていません」
女性は小さくため息をついた。「そうですか。でも、ありがとうございます」
彼女は立ち上がり、コーヒーを一口飲むと、レインコートのポケットから名刺を取り出した。
「もし見かけたら、連絡してもらえませんか」
彼は名刺を受け取った。そこには彼女の名前と携帯電話の番号だけが書かれていた。佐々木ユリ。シンプルな名前だ。
「探してみます」
なぜそう言ったのか、彼自身にもわからなかった。ただ、何かが彼にそう言わせたのだ。
女性は驚いたような顔をした。「本当ですか?でも、お忙しいでしょうに」
「構いません」彼は答えた。「水曜日は暇なんです」
それから彼は、毎日夕方になるとこの近所を歩き回るようになった。雨の日も、風の日も。灰色の猫を探して。なぜそうするのか、自分でもよくわからなかった。ただ、その行為が彼に何か新しい目的を与えてくれたような気がした。
一週間が過ぎた。猫は見つからなかった。
次の水曜日、彼はいつものようにコーヒー店に行った。いつもの席に座り、いつものコーヒーを注文した。ページを開こうとしたとき、入り口のベルが鳴った。
佐々木ユリが入ってきた。彼女は店内を見回し、彼を見つけると、まっすぐに歩いてきた。
「見つかりました」彼女は言った。「マーロウ、昨日帰ってきたんです」
「それはよかった」
「ありがとうございました。探してくださって」
彼は何も言わなかった。実際のところ、彼は猫を見つけられなかった。猫は自分で帰ってきたのだ。
「これから、少し時間ありますか」ユリが訊いた。
彼は頷いた。
二人は店を出て、雨上がりの街を歩いた。空は少し明るくなっていて、雲の切れ間から薄い光が差し込んでいた。彼らは特に目的地もなく、ただ歩いた。そして彼は思った。人生というのは、こういうことの連続なのかもしれない。偶然の出会いと、小さな行動と、意味のないように見える繰り返し。でも、そのすべてが少しずつ、何かを変えていく。
コーヒーカップの中の液体が、完全に冷めていくように。ゆっくりと、確実に。