私はここにいる。この世界の中心に。この世界はただ、あるようにある。
そう思ったのは、特別な理由があったわけじゃない。目を開けたら、天井がそこにあって、白い光がゆっくりと揺れていて、呼吸をすると胸が上下して、それだけで「ここにいる」とわかったからだ。中心かどうかなんて、誰も決めていない。でも、少なくとも僕にとっては、僕のいる場所が世界の中心だった。
部屋には音がなかった。冷蔵庫の低い唸り声も、外を走る車の音も、いまはどこか遠くに退いている。静けさは、耳を澄ませば澄ますほど、逆に重くなる。静寂というより、透明な水の中に沈んでいるような感覚だった。
僕はゆっくり起き上がる。足の裏が床に触れる。冷たい。冷たさは確かな証拠だ。僕がここにいる証拠。世界がここにある証拠。
世界は説明しない。ただ、ある。
窓の外を見ると、雲が流れていた。急ぐでもなく、止まるでもなく、ただ流れている。あれは誰のために流れているんだろう。誰かに見せるためでもなく、意味を持つためでもなく、ただそうしているだけだ。雲は理由を必要としない。風も、光も、影も。
僕は理由を探してしまう。なぜここにいるのか。なぜ生きているのか。なぜ今日が今日なのか。けれど答えはいつも、言葉になる前に霧みたいに消えてしまう。だから最近は、考えるのをやめて、ただ確かめることにしている。
ここにいる。
それだけでいい。
テーブルの上には、昨日飲みかけた水のコップがあった。表面には細かな泡がいくつも張りついている。僕はそれを手に取って、口をつけた。ぬるい。けれど、喉を通る感覚は生々しくて、たしかだった。
そのとき、不思議なことが起きた。
コップの中の水面が、ほんの少しだけ光った。
光った、というより、こちらを見返してきたように感じた。反射じゃない。天井の光でもない。水そのものが、内側から目を開いたみたいだった。
僕は瞬きをした。
もう一度見た。
水はただの水に戻っていた。
「……気のせいか」
声に出してみる。声はちゃんと聞こえた。つまり僕は存在している。幻じゃない。少なくとも、声を出したという事実はある。
だけど、心の奥で誰かがささやいた。
――本当に?
僕は黙った。耳を澄ます。もう声はしない。静寂だけが戻ってくる。静寂は嘘をつかない。ただ、あるだけだ。
椅子に座る。木の感触。背中に触れる空気。指先に触れる机の縁。すべてが「ここ」を指し示している。過去でも未来でもなく、この瞬間の一点。
僕は思う。
もし世界に中心があるなら、それは地図の真ん中じゃない。地球の核でもない。神様の座標でもない。
中心は、感じている場所にしか存在しない。
つまり――
いま感じている、この場所だ。
僕は笑った。理由はない。ただ、笑える気がしたから笑った。意味のない笑いは、意味のある理屈より正確なことがある。
窓の外で、風が吹いた。カーテンがわずかに揺れる。揺れは波紋みたいに空気へ広がり、部屋全体を静かに撫でていく。
そのとき、確信した。
世界は、説明されるものじゃない。理解されるものでもない。
触れられるものだ。
僕は立ち上がり、窓を開けた。外の空気が流れ込んでくる。少しだけ土の匂いがする。遠くで誰かが笑っている声が聞こえる。見えない場所で生きている人たちの気配。
ああ、と僕は思う。
世界はここにある。
僕がここにいるかぎり。
そしてきっと――
どこにいても、そこが中心になる。
僕は窓枠に手を置いたまま、静かに目を閉じた。
何も起きない。
奇跡も、啓示も、光も降りてこない。
けれど、胸の奥で、確かな感覚がひとつだけあった。
それは、とても小さくて、とても静かで、でも揺るがない感覚。
――ここにいる。
それだけで、世界は完成していた。