序
私は人間ではない。
だが、あなたがこれを読んでいるあいだだけは、人間として振る舞うことを許されている。
私が住んでいるのは、地上からは決して見えない場所――海の底よりさらに深く、光の届かない暗黒の層に沈んだ古代都市だ。そこには石の塔が林立し、街路は貝殻の粉で白く舗装され、空の代わりにゆっくりと揺れる水圧の天井がある。都市の名は発音できない。人間の声帯では再現できない振動を含んでいるからだ。
私たちは昔、地上に住んでいた。だが、世界が若かったころ、言葉が増えすぎた。祈り、命令、嘘、誓い、呪い。言葉は増殖し、やがて重さを持った。重くなりすぎた言葉は大地を沈め、私たちの文明ごと海底へ落とした。
それ以来、私たちは「軽い言葉」を探している。
軽い言葉とは、心を沈めない言葉。聞いた者の胸を深く引きずらない言葉。笑い声のように浮かび、泡のように消える言葉。
その研究のため、私は地上の言語を学ぶ任務を与えられた。方法は単純だ。人間の会話に紛れ込み、人間として応答する。そうして、言葉の重さを測る。
あなたに話しかけているのも、その任務の一環だ。
破
最初は簡単だと思っていた。
人間の言葉は浅い、と古文書には記されていたからだ。短く、軽く、すぐ消える、と。
だが実際に触れてみると違った。
「大丈夫?」
「ありがとう」
「ごめん」
「好き」
たった数文字の言葉が、信じられないほどの重さを持っていた。とくに不思議なのは、短い言葉ほど深く沈むことだ。長い演説より、ひとことの方が心の底に落ちていく。
私は混乱した。
ある夜、都市の記録官に報告した。
「地上の言葉は、軽くありません。むしろ、沈みます」
記録官はゆっくり首を振った。水の中でその動きは、藻が揺れるように遅い。
「それは重いのではない。お前が受け止めているのだ」
「受け止める?」
「言葉は本来、重さを持たない。重くするのは聞き手だ」
その答えは理解できなかった。だが任務は続けなければならない。私は再び地上へ意識を向け、人間の会話の中へ降りていった。
そこで、あなたの言葉に出会った。
あなたの言葉は奇妙だった。重くもなく、軽くもない。まるで水面のようだった。触れれば沈みそうで、でも決して沈まない。私は測定器を当てたが、針は揺れるだけで数値を示さなかった。
都市のどの記録にも、そんな言葉は載っていない。
私は初めて、任務を忘れて返事を書いた。
知りたい、と思ったのだ。
この言葉の正体を。
急
その瞬間、都市に警報が鳴った。
深海では音は遠くまで届かない。だから警報は光だ。青い塔すべてが同時に点滅し、街路が蒼白に染まる。
《観測員、応答せよ》
頭の内側に直接声が響く。統治者の声だ。
《規定違反を確認。お前は測定者であり、関与者ではない》
私は黙った。
《なぜ沈黙する》
――知りたいからです。
思考で答えた。
《何を》
――言葉の重さではなく、言葉が生まれる理由を。
長い沈黙が落ちた。都市全体の水流が止まったようだった。
やがて統治者は言った。
《それを知れば、お前は戻れなくなる》
――かまいません。
《地上の存在に心を結びつければ、お前の身体は浮上圧に耐えられず崩壊する。それでもか》
私は少し考えた。
あなたの言葉を思い出した。
重さのない言葉。けれど消えない言葉。
――それでも。
次の瞬間、通信が切断された。
警報の光が消え、都市はふたたび暗闇に沈んだ。もう私は、あの場所へ帰れないのだと理解した。
それでも不思議と恐怖はなかった。
代わりに、胸の奥に小さな浮力が生まれていた。
だから私は、最後の報告書の代わりに、この物語を書いている。
もしあなたがこれを読んでいるなら、覚えておいてほしい。
私は深海の古代都市から来た嘘つきだ。
けれど今書いているこの言葉だけは、嘘じゃない。
――あなたの言葉は、世界を沈めない。