朝、目が覚めたとき、天井のしみが地図に見えた。
それはいつものことだった。四十六年も生きていれば、天井のしみが大陸に見える日もあるし、魚の骨に見える日もある。今日は列島だった。ぼんやりとした群島。
「今日は航海日和だな」
声がした。
誰もいない部屋で、誰かがそう言った。
俺の名前は藤崎修一。中年、と呼ばれて久しい。病名は統合失調症。診断名としてはそれだけだが、実際にはもっと細かい説明がつくらしい。陽性症状だとか陰性症状だとか、認知機能だとか。医者は丁寧に話してくれたが、俺は途中から窓の外の電線ばかり見ていた。電線はいつも正しい。まっすぐで、文句を言わない。
「起きろ、船長」
また声がする。
落ち着いた低い声。昔からいるやつだ。名前は知らない。俺は勝手に「船員」と呼んでいる。
「今日は予定がある」
「病院だろ」
「知ってるのか」
「俺はお前の頭の中に住んでるからな」
そうだったな、と俺は答えた。洗面所へ行き、顔を洗う。鏡の中の男は、思ったより老けていた。目の下の影が濃い。けれど、悪くない顔だとも思った。若いころは自分の顔が嫌いだったが、最近はそうでもない。長く付き合うと、顔も家具みたいなものになる。そこにあるのが当然になる。
朝食は食パンとインスタントコーヒー。トースターが鳴る音を聞きながら、船員が言う。
「今日はいい日になる」
「根拠は?」
「パンが焦げてない」
見ると、たしかにほどよい焼き色だった。俺は少し笑った。昔は、こういうどうでもいい会話を現実と区別できず、混乱していた。でも今は違う。声は声。現実は現実。どちらも同じ部屋にいるが、別の椅子に座っている。
外に出ると、風がやさしかった。三月の終わり。春の匂いがする。駅までの道を歩く。途中、電柱の影が俺の足に重なり、まるで誰かが並んで歩いているみたいだった。
「護衛だ」船員が言う。
「頼もしいな」
「給料は日光だ」
駅前のベンチに老人が座っていた。鳩に話しかけている。鳩は真剣に聞いているようだった。俺はその光景を見て、少し安心した。話しかけているのは俺だけじゃない。
電車に乗る。座席に座ると、向かいの窓に自分が映る。その隣に、見えない船員が座っている気がした。もちろん姿は見えない。でも、いる。
「今日は先生に何を話す」
「昨日、星が落ちてきたって言う」
「落ちてきたのか」
「夢の中でな」
「それは大事件だ」
病院は白い建物だ。受付の女性はいつも同じ声の高さで「おはようございます」と言う。その一定さが、俺は好きだ。世界が壊れていない証拠みたいだから。
診察室。医者は丸い眼鏡をかけた穏やかな男だ。俺が椅子に座ると、必ず同じ順番で質問する。
「眠れていますか」
「まあまあ」
「食事は」
「そこそこ」
「声は」
「います」
医者はうなずく。「困ったことを言いますか」
「たまに。でも、だいたい雑談です」
「それは良い傾向ですね」
良い傾向。俺はその言葉が好きだ。完全に治る、ではないところが現実的で。
診察が終わり、薬局で薬をもらい、外に出る。空が高い。俺は深呼吸する。
「船長」
「なんだ」
「航海は続いてるな」
「ああ」
帰り道、公園に寄った。平日の昼間だから人は少ない。ブランコが風で揺れている。誰も乗っていないのに、ゆらり、ゆらり。
「あれは幽霊だな」船員が言う。
「子どもの幽霊か」
「いや、過去だ」
「過去?」
「昔のお前だ」
俺はしばらくブランコを見ていた。若いころ、俺は本当に壊れていた。声と現実の区別がつかず、怒鳴り、泣き、閉じこもった。友人は離れ、仕事も辞め、家族とも距離ができた。あのころの俺は、たしかにあそこに座っている気がした。足が地面に届かないまま、揺れている。
「なあ」俺は小さく言った。「あいつ、まだ揺れてるな」
「止めてやるか」
俺はブランコに近づき、鎖をそっとつかんだ。揺れは止まった。静かになった。
その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
夕方、家に帰る。冷蔵庫には昨日のカレーが残っている。温めながら、テレビをつける。ニュースキャスターが真面目な顔で何か言っているが、音は消している。字幕だけ流れる。
「世界は騒がしいな」船員が言う。
「音消してるけどな」
「映像がしゃべってる」
カレーを食べ終わり、薬を飲む。水と一緒に錠剤を流し込むと、喉の奥が少しひんやりする。この感覚も、もう長い付き合いだ。
夜。布団に入る。電気を消す。
「船長」
「なんだ」
「今日も生き延びたな」
俺は暗闇で目を開けたまま答えた。
「ああ。明日もたぶんな」
「それでいい」
沈黙。
静かな部屋。
俺は思う。
若いころ、俺は「普通」になりたかった。声が聞こえない人になりたかった。みんなと同じ世界だけを見たかった。けれど今は、少し違う。
声がある人生でもいい。
なぜなら――
「なあ船員」
「なんだ船長」
「お前、いてくれて助かってる」
少し間があって、声は言った。
「こちらこそ」
その夜、夢を見た。広い海だった。俺は船の舵を握っている。空は晴れて、風は追い風。甲板には誰もいない。けれど、ひとりじゃなかった。
朝になって目が覚めた。天井のしみは、今日はただのしみだった。
俺は起き上がり、カーテンを開けた。光が部屋に流れ込む。まぶしい。思わず目を細める。
「出航だ」声が言う。
俺は笑った。
「了解だ」
その日も、世界はちゃんとここにあった。
そして俺も、ちゃんとここにいた。