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← トップページへ戻る 【小説、詩】

名もない旋律

ゆるやかな流れのなかで僕はひとり心地よい歌を聴いた。

それがどこから聴こえてくるのか、はじめはわからなかった。川のせせらぎのようでもあり、遠いラジオのノイズのようでもあり、あるいは自分の胸の奥から滲み出してくる音のようでもあった。耳を澄ませば澄ますほど、その歌は遠ざかり、意識を手放すと、ふっと近くに戻ってくる。まるで僕の考えを試しているかのように。

僕は椅子に座り、窓の外を眺めていた。午後の光は薄く、白いカーテンを透かして部屋に広がっている。埃の粒がゆっくりと落ちていく。その一粒一粒が、時間そのもののように見えた。時計は止まっていないのに、この部屋だけが別の速さで流れている気がした。

歌は、相変わらず続いていた。旋律は単純なのに、なぜか懐かしい。子どものころ、まだ世界が名前を持たなかった頃に聴いたような気がする。あの頃は、すべてがただ「そこにある」だけで十分だった。理由も説明もいらなかった。嬉しさも悲しさも、ただ体の中を通り過ぎていくだけだった。

ふと、僕は立ち上がった。歌の出どころを確かめたくなったのだ。床板は冷たく、裸足の裏に現実を思い出させる。部屋の隅、棚の裏、カーテンの向こう、耳を近づけてみるが、どこにも音源らしきものはない。むしろ探せば探すほど、歌は部屋全体に広がり、空気そのものが歌っているように感じられた。

「君は誰だ」

声に出してみると、思ったより乾いた声だった。歌は止まらない。ただ少しだけ、旋律が柔らかく変わった。まるで問いかけに微笑んだように。

その瞬間、僕は気づいた。これは外から来た音ではない。思い出そうとしても思い出せない、ずっと前に置き忘れた何か――たぶん、僕自身の声だ。

そう思うと、不思議と怖くはなかった。むしろ安心した。自分の中にまだこんな音が残っていたのか、と。忘れてしまったと思っていたものは、消えたのではなく、静かに流れ続けていただけなのだ。川底の水のように、目に見えないところで。

椅子に戻り、僕は目を閉じた。歌は少しずつ輪郭を持ちはじめる。言葉になりそうで、ならない。意味になりそうで、ならない。それでも確かに、僕に向かって歌われている。

外では風が吹いた。木々の葉が触れ合い、小さなざわめきを作る。その音さえ、歌の伴奏のように聞こえた。世界はずっと前からこの旋律を知っていて、僕だけが思い出せずにいたのかもしれない。

どれくらい時間が経ったのだろう。歌は終わらない。ただ、形を変えながら流れていく。悲しい調べになり、すぐに明るくなり、また静かになる。まるで人生の縮図のようだと僕は思った。もしそうだとしたら、この歌を最後まで聴くことが、僕の役目なのかもしれない。

胸の奥がじんわり温かくなった。理由はわからない。でも、わからないままでいい気がした。理解することより、感じることのほうが正しい瞬間もある。

僕はそっと息を吸い、吐いた。歌はそれに合わせるように、ゆるやかに揺れた。

そのとき、はじめて確信した。
この歌は、どこへも行かない。
僕がどこへ行っても、きっと一緒に流れていく。

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