ルナとの出会いから数日、ハルの世界は一変した。
正確には、世界が「二重」になった。
人々がせわしなく行き交う駅前の広場。ハルの目には、人々の背後から伸びる、色あせた灰色の糸が見える。それは彼らが抱える「孤独」や「諦め」の残滓だ。その糸が密集する場所で、世界の壁は薄くなり、あちら側の「ノイズ」が漏れ出している。
「今日はあそこのカフェが危ないわ。ハル、お願い」
隣を歩くルナが、銀色の指先でテラス席を指した。ハル以外には見えない彼女は、まるで光の粒子で編まれた精霊のように、初夏の風に透けている。
ハルはスケッチブックを広げ、慣れた手つきでパレットに黄色を置いた。
「……わかった。少し、待っててくれ」
彼が筆を振るうと、カフェの角にたまっていたドロリとした黒い影が、瞬時に鮮やかなひまわり色の光に溶かされ、霧散していく。
影から解放された客たちは、「なんだか急に気分が軽くなったな」と、不思議そうに微笑み合った。
「……不思議だな。僕がやってることは、ただの『お絵描き』なのに」
「それは違うわ。ハルは、世界に『意味』を書き足しているのよ。孤独で透明になった場所に、あなたの色で血を通わせているの」
ルナの言葉に、ハルは少しだけ照れくさそうに視線を落とした。
かつて、これと同じことを病院の待合室でやろうとしたことがあった。だがその時は、ただ空中で筆を振り回す変な男として、冷ややかな視線を浴びるだけだった。
「ルナ。君といると、自分が『異常』であることを忘れてしまいそうになる」
「ハル。異常とか正常とか、それは誰が決めるのかしら? 私たちの世界では、あなたのように繊細な魂を持つ人は『星読み』と呼ばれて敬われていたのよ」
彼女はハルの隣に座り、楽しそうに足を揺らした。
しかし、そんな穏やかな時間は、ハルのスマートフォンの震えによって中断された。画面には「母さん」という二文字。
ハルの表情が、一瞬で強張る。
『ハルキ、元気なの? ちゃんと薬は飲んでいる? また変な絵を描いて、近所の人を驚かせていないでしょうね。……お母さん、心配で夜も眠れないのよ』
留守番電話に残された声は、優しく、そしてハルを絶望的に孤独にさせた。
彼女にとって、ハルの見ている世界は「治療すべき不具合」でしかない。ルナとの旅も、この光の魔法も、すべては脳のバグとして片付けられてしまう。
「……ハル?」
ルナが心配そうに覗き込む。彼女の瞳の青と琥珀が、ハルの揺れる心を映し出していた。
「……大丈夫だ。ただ、少しだけ『現実』が重くなっただけだよ」
ハルは無理に笑ってみせたが、その足元から、再び黒い影が伸び始めていることに気づかなかった。
ハルの不安は、そのまま境界線の「綻び」を広げる劇薬になる。
その時、街のスピーカーから不快なハウリング音が鳴り響いた。
空を見上げると、第1章で見たクジラよりも、さらに巨大で禍々しい「何か」が、街の中心部にある時計塔に巻き付こうとしていた。
それは、ハル自身の心の奥底にある「誰にも理解されない」という巨大な孤独が、呼び寄せてしまった嵐の先触れだった。
「来るわ……ハル、過去最大のノイズよ!」
ルナの叫びとともに、街の色彩が急速に失われ、すべてがモノクロームの世界に塗り替えられていく。