×

何をお探しですか?

キーワードを入力して Enter を押してください

コンテンツにスキップ
← トップページへ戻る 【小説、詩】

境界線の調律師 第2章

「嘘だ……こんなこと、あるわけない」

ハルは、ルナに握られた手の熱を必死に否定しようとしていた。

目の前の光景は、主治医が言う「脳内の電気信号のバグ」にしては、あまりにも緻密で、あまりにも冷酷な現実味を帯びていた。

公園の並木は、クリスタルのような結晶へと姿を変え、空を悠々と泳ぐ巨大なクジラは、街の音をすべて吸い込んでいく。代わりに聞こえてくるのは、ガラスが擦れ合うような、硬く、美しい未知の旋律だった。

「ハル、怖がらないで。あなたの脳が見せているのは『狂気』じゃない。この世界が隠しきれなくなった『真実の断片』なの」

ルナが銀色の髪をなびかせながら、ハルのスケッチブックを指差した。

そこには、先ほど彼が無意識に描いた「赤い飛沫」が、今も脈打つように輝いている。

「この世界の境界線は、人々の『孤独』によって摩耗し、薄くなっているわ。孤独が飽和すると、境界は破れ、あの中にある『忘却の影』が流れ出してくる。あなたは、それを色に変えて繋ぎ止めることができる唯一の調律師なのよ」

『騙されるな』

『そいつは死神だ』

『お前を地獄へ連れて行く気だぞ』

耳の奥で、いつものノイズが激しく騒ぎ立てる。ハルは頭を押さえてうずくまった。

薬は飲んだはずだ。これは幻覚のはずだ。なのに、ルナの瞳に宿る真摯な光が、彼の心の奥底にある、誰にも触れさせなかった「寂しさ」を静かに溶かしていく。

その時、頭上のクジラが大きな口を開けた。

そこから滴り落ちたのは、ハルが今朝見たものと同じ「黒いインク」の塊だった。それは地面に着地すると、形を成し、影だけの獣へと変貌した。

獣が咆哮を上げる。街を歩いていた「正常な」人々は、その姿に気づくことさえできず、ただ理由のない不安に襲われたように足を早めるだけだった。

「……僕に、何ができるって言うんだ」

ハルは震える手で筆を握り直した。

「描いて、ハル。あなたがいつも見ていた、あの『世界の歪み』を。それをあなたの色で塗りつぶして!」

ルナの叫びに呼応するように、ハルの心臓が激しく波打った。

彼は逃げるのをやめた。いつも自分を苦しめてきた「見えすぎる視界」を、初めて肯定するように、カバンからパレットを取り出し、チューブから大量の青を絞り出した。

「消えろ……消えてくれ!」

ハルが筆を大きく一閃させると、そこから放たれたのは液体としての絵具ではなく、純粋な光の帯だった。

コバルトブルーの奔流が、影の獣を飲み込んでいく。黒い影は、ハルの色が触れた場所から、美しい瑠璃色の石へと結晶化し、砕け散った。

「できた……」

呆然とするハルの前で、ルナが小さく拍手をした。

しかし、彼女の表情はすぐに曇る。

「でも、これは始まりに過ぎないわ。大きな嵐が来ている。ハル、この街全体が飲み込まれる前に、境界線を修復しなきゃいけない」

ハルは自分の手を見た。まだ微かに青い光が指先に残っている。

自分を孤独に追いやり、社会から切り離した「病気」が、この世界では「力」になるというのか。

「……ルナ、一つ聞いていいか」

「なあに?」

「君は……僕が壊れているから、見える存在なのか?」

ルナは一歩近づき、ハルの頬に冷たい指先で触れた。

「いいえ。あなたが優しくて、世界を諦めずに見つめ続けてきたから、私はあなたに出会えたのよ」

その言葉は、何年も暗闇にいたハルの心に、初めて灯った小さな暖炉の火のようだった。

孤独の淵で震えていた調律師は、今、初めて自分の足で「境界線」の上に立った。

コメントを残す