第1章:世界が剥がれる日
世界は、案外簡単にもろく崩れる。
ハル——本名、瀬戸晴希(せと はるき)は、ワンルームマンションの湿った空気の中で、それを熟知していた。
彼にとって、世界は一枚のキャンバスではない。何層にも重ねられた、質の悪い薄紙のようなものだ。
「……また、始まった」
朝、目覚めると同時に、天井の隅から「黒いインク」が滴っていた。
それは物理的な液体ではない。ハルの脳が見せている幻覚、医学的には「統合失調症」というラベルを貼られた現象だ。しかし、ハルにはそれが、世界の境界線から漏れ出した「ノイズ」のように見えていた。
ジジ、と耳の奥で古いラジオのような音が鳴る。
『お前、見られているぞ』
『あいつらが、鍵穴から覗いている』
「黙れよ」
ハルは短く呟き、枕元に置かれたプラスチックの薬ケースを手に取った。真っ白な錠剤を水で流し込む。これは、世界を「正常」という名の灰色の静寂に繋ぎ止めるための、重りだ。
薬を飲んで三十分もすれば、天井のインクは消え、囁き声も遠ざかる。代わりに、全身を包むのは耐え難い「孤独」という名の倦怠感だ。ハルは立ち上がり、窓を開けた。
外は、眩しいほどの五月晴れだった。
しかし、ハルの瞳に映る街は、どこかおかしい。
走る車のタイヤから火花ではなく「青い蝶」が舞い散り、歩道を歩くサラリーマンたちの影が、本体とは別の方向へ勝手に伸びて歩いている。
「……今日は、少し層が薄いな」
ハルは、使い古されたスケッチブックと、絵具を詰め込んだカバンを掴んだ。
主治医からは「なるべく外に出て、現実の刺激に触れなさい」と言われている。しかし、外に出れば出るほど、彼は「現実」がいかに不安定かを知る。
公園のベンチに座り、ハルは筆を走らせた。
彼が描くのは、目に見える緑の木々ではない。木々の背後に潜む、黄金色に輝く「脈動」だ。
ハルがキャンバスに筆を置いた瞬間、奇妙なことが起きた。
彼がパレットで混ぜ合わせた「鮮やかな赤」が、絵の中から溢れ出したのだ。
それはまるで生き物のように、ハルの手首に巻き付き、空中に音符のような軌跡を描く。
「綺麗……」
思わず口にした瞬間、背後でパサリと乾いた音がした。
ハルが驚いて振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
年の頃は十代後半。透き通るような白い肌に、月光を糸にしたような銀色の髪。そして何より、彼女の瞳は——右が深い海のような青、左が燃えるような琥珀色の「オッドアイ」だった。
彼女は、ハルの足元に広がっている「赤い絵具の光」を、じっと見つめていた。
普通の人間には見えないはずの、ハルの脳内の色彩を。
「……あなた、それが見えるの?」
ハルは声が震えるのを隠せなかった。
これは幻覚か? 薬が足りなかったのか? それとも、新しいタイプの「声」の主か?
少女は一歩、ハルの方へ歩み寄った。彼女が歩くたび、足元の芝生が虹色に発光し、小さな花が瞬時に咲いては散っていく。
彼女はハルのスケッチブックを指差し、鈴を転がすような声で言った。
「ノイズを調律できる人を探していたの。この世界が、完全に剥がれ落ちてしまう前に」
「調律……? 何を言っているんだ。君は、誰だ?」
ハルが問いかけると、少女は悲しげに微笑んだ。
その瞬間、街の騒音が消えた。セミの鳴き声も、遠くの工事の音も、行き交う人々の話し声も。
代わりに、空が真っ二つに割れ、そこから見たこともない巨大な「クジラ」のような影が、夕焼けを飲み込みながらゆっくりと降りてきた。
ハルが恐怖で固まったその時、少女が彼の手を強く握った。
冷たい、けれど確かな人間の体温。
「私の名前はルナ。この世界の裏側にある『境界(ボーダー)』の住人。ハル、あなたのその孤独な色は、世界を救う鍵なの」
ハルの目の前で、街の風景がボロボロと剥がれ落ちていく。
コンクリートの下から覗いたのは、宝石のように輝く星屑の川と、異形の怪物たちが蠢く、美しくも恐ろしい「真実の世界」だった。
孤独だったハルの日常が、極彩色のファンタジーへと変貌を始めた瞬間だった。