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この世界に平穏を

その朝、僕は理由もなく早く目が覚めた。窓の外では、名前のわからない鳥が単調なリズムで鳴いていた。まるで壊れかけのメトロノームみたいだった。コーヒーを淹れ、トーストを焼き、いつもと同じ順番で朝を処理した。特別なことは何も起きていない。少なくとも表面上は。

郵便受けには一通の封筒が入っていた。差出人の名前はなく、僕の名前だけが、少し古い万年筆で書かれていた。インクのにじみ方が、なぜか昨日の雨を思い出させた。

封筒の中には鍵が一本と、短いメモが入っていた。

「午後三時、川沿いの倉庫。来られるなら来てください」

それだけだった。説明はない。脅しでもない。ただ事実だけが置かれている。僕は鍵を手のひらに乗せてみた。思ったより軽く、そして少しだけ温かかった。

午後三時、僕は言われた通り川沿いの古い倉庫にいた。シャッターは半分だけ開いていて、中は薄暗かった。埃の匂いと、かすかなオイルの匂いが混ざっていた。誰もいないように見えた。

奥に、小さなドアがあった。鍵は驚くほど自然に合った。ドアの向こうには、何もなかった。ただ空っぽの部屋と、古いスピーカーが一つ置かれているだけだった。

スピーカーから、静かに音楽が流れ始めた。聞いたことのない曲だった。でも不思議と懐かしかった。まるで、忘れていた自分の一部が、そこに保管されていたみたいだった。

僕は椅子に座り、音楽を最後まで聴いた。それだけで、ここに来た理由は十分だった気がする。

倉庫を出ると、川はいつも通り流れていた。世界は何も変わっていない。でも、僕の中で何かが、ほんの数ミリだけずれた。そのずれを、僕は悪くないと思った。

家に帰ると、鳥はもう鳴いていなかった。代わりに、静かな午後がそこにあった。

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