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← トップページへ戻る 【小説、詩】

彼女と選挙

彼女は朝、カーテンを少しだけ開けた。

光がまぶしすぎると、声が強くなる気がするからだ。

時計は七時半を指している。

今日は選挙の日だった。

「今日は危ない日だよ」

頭の奥で、よく知った声が言う。

低く、男とも女ともつかない声。

彼女はそれに返事をしない。返事をすると、会話になってしまう。

彼女は統合失調症と診断されて十年になる。

最初の発症は二十代の終わりだった。

世界が急に意味を持ちすぎて、すべてが自分に関係しているように感じられた。

テレビのニュースが自分への暗号に思えた。

街のポスターの目が、彼女を見ている気がした。

今は、少し落ち着いている。

薬も飲んでいるし、作業所にも通っている。

それでも、声は完全には消えない。

彼女は台所でお湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れた。

湯気を見つめながら、心をここに戻す。

――今日は選挙

――私は投票に行く

数日前から、ノートに何度も書いた言葉だ。

作業所で選挙の話題が出たとき、彼女は黙って聞いていた。

「投票、行きます?」と職員が聞いたときも、うなずくだけだった。

本当は怖かった。

名前を書くこと。

箱に紙を入れること。

それが「誰かに見られる」気がして。

「記録されるよ」

「後で調べられる」

声は、もっともらしい理由をつけて不安を煽る。

でも別の声も、最近は少しだけ現れる。

作業所の帰り道に、ふと聞こえる声。

「行ってもいいんじゃない?」

彼女はその声を、心の中で「小さい声」と呼んでいた。

大きな声よりも弱く、でも嘘は言わない気がした。

選挙ポスターを見た日、彼女は足を止めた。

候補者の一人が、障害者支援について話している記事を読んだことがあった。

――この人が全部助けてくれるわけじゃない

――でも、無関係じゃない

そう思えたのが、不思議だった。

当日。

彼女は少しきれいめな服を選んだ。

誰に見せるわけでもないが、自分のためだった。

外に出ると、近所の人が犬の散歩をしていた。

普通の朝。

それが、彼女を少し安心させた。

投票所の公民館は、昔から知っている場所だった。

子どもの頃、習字教室に通っていた建物だ。

入口が近づくにつれて、心臓が早くなる。

「やめとこう」

「今日は体調が悪いことにしよう」

声が強くなる。

彼女は立ち止まり、深呼吸をした。

――逃げてもいい

――でも、今日は行きたい

その気持ちを、彼女は初めてはっきり感じた。

中に入ると、係の人が穏やかに案内してくれた。

誰も彼女を特別扱いしない。

それが、ありがたかった。

紙を受け取り、記載台に立つ。

鉛筆の重さが、やけに現実的だった。

「名前を間違えたら無効だよ」

声がささやく。

彼女の手が震える。

――大丈夫

――間違えても、私は私

ノートに何度も書いた名前を思い出す。

文字を書く。

一文字ずつ、ゆっくり。

書き終えた瞬間、頭の中が少し静かになった。

投票箱に紙を入れる。

箱の中に落ちる音が、思ったより小さかった。

外に出たとき、彼女はしばらく立ち尽くした。

空気が軽い。

「終わったね」

小さい声が言う。

帰り道、彼女はパン屋に寄った。

いつもは通り過ぎる店だ。

今日は、なぜか入りたくなった。

パンを一つ買って、公園のベンチに座る。

選挙速報は、まだ始まっていない。

世界は変わっていない。

声も、まだある。

それでも彼女は思う。

――私は、ここにいる

――消えていない

選挙の結果がどうであれ、

今日の一票は、彼女自身への肯定だった。

風が木を揺らす。

彼女はパンをかじり、静かに笑った。

また次の選挙も、

声がうるさくても、

怖くても。

彼女は、行くかもしれない。

それだけで、十分だった。

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