彼は、ときどき世界にひびが入る。
壁がゆっくり呼吸したり、遠くで誰かが自分の名前を呼んだりする。そんな日は、ポケットに小さな石を入れて外に出る。現実は冷たくて、重い。石は嘘をつかない。
「今日はどう?」
声が聞こえる。
彼にしか見えない、光の輪郭をした人。昔は怖かった。今は、少し頼もしい。
「まあまあ。空が青いから」
そう答えると、声は笑う。
彼はベンチに腰かけ、深呼吸を三回する。教えてもらったやり方だ。息を吐くたび、世界の輪郭が少しずつ落ち着いてくる。
通りかかった犬が尻尾を振る。
飼い主が会釈する。
現実は、ちゃんとこちらに反応してくれる。
声が言う。
「無理しなくていいよ。今日はここまでで合格」
以前の彼は、完璧じゃない自分を責め続けていた。見えないものに振り回される自分は、どこか壊れているのだと思っていた。でも今は違う。壊れているのではなく、少し音量が大きいだけだ。
彼はポケットの石を握る。
冷たい。確かだ。
家に帰ると、窓から夕焼けが差し込んでいた。
彼はカーテンを少し開け、湯を沸かす。湯気が立ちのぼる。現実は、ちゃんと温度を持っている。
声は、静かになる。
消えるわけじゃない。ただ、後ろに下がる。
「ありがとう」
彼がそう言うと、光は遠くで手を振った。
夜。
ノートを開き、今日できたことを三つ書く。
外に出た。
犬を見た。
お茶を淹れた。
十分だ。
世界は全部理解できなくても、生きるには足りている。
ベッドに横になると、彼は思う。
見えるものも、見えないものも、同じ世界の中にある。選べるのは、どれを信じて一歩踏み出すかだけだ。
彼は目を閉じる。
明日は、もう少し歩ける。
そう確信しながら、眠りに落ちた。