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私が幸せになるために

 私は意識の中に何を含んでいるのだろうか?クリアな中にドロのようなものがある。世界は、この世界は澄み切ったものではないという認識がある。この認識を発展させていくべきか?私は空から世界を見ていた。だが、その空はとても大きな問題だった。私から、世界へといざなう世界へといたる道なのだ。この世界の中で、私は私から世界に入る。私自身が幸せになる道を考える。嫌いな人からは離れる。好きな人とは一緒にいる。この基本的な原則をとるために、何ができるだろうか?私の中で、幸せの基準とは、好きなことをして、好きな場所にいて、好きな人と一緒にすごすことだ。私は求め過ぎだろうか?私は幸せの意味を考えると、私自身の自信を失っているのかもしれない。なぜなら、私は妄想をいだくことによって、世界を失わされている。さらに、この世界から内なる物語を続けていくために、その触りから終わりへと、伝えられている。その世界像の中から消えていく世界の中で、私たちは、このイメージを共有しようと日々もがいている。私の中から世界が広げていく。その道から宗教的な全体が浮き上がってくる。私は今日箱根駅伝を見ていた。青山学院大学が、往路優勝を果たした。出遅れていたが、じょじょに追い上げて、優勝した。すごいことだ。私の中からひとつの世界が配信をとおして、生まれてくる。私の股間はくさい。私の股間はすでにくさくなっている。その事実について、一体、何を語ることができるだろうか?私の世界は、私の道を進めていく。からの?からの、力がある。私はただ、世界の中から骨髄を取り出そうとしている。何を考えているのか?何も考えていない。何も世界の中から現実に世界を構築していく。シャーマンのように、何も考えずに、身を神にゆだねるように世界の中から、世界をのぞきみる。私が、私でさえ、死すらも生きていることもある。私の夜から昼への道連れは、私から来ている空へと通じている。私から生きることを奪うのは、何者だろう?私を道に通っている。私の中に世界をつくりあげている。私の世界の中にいるものがある。世界の中に日々がある。私は私である。始まりと終わりの世界の中で、私は、兄家族に嫌われているという思いと、兄家族を忌み嫌う気持ちが交錯しているような気がする。世界の中で、私は私自身への邪悪な側面に、やっぱり向き合わなければいけない。私は兄家族を忌み嫌っているわけではない。私は、泊まりで、家に来る兄家族に対して、ひどく嫌な気持ちを持っている。その言葉がひたすら、始まりから終わりへと伝わっていく。私の中から希望が消えていくのか?私は私の縁を自分で切ろうとしているのか?それでも、私はそういう人間なのだ。だから、そのうえで、生きていくしかない。私の中で、私自身へのあきらめがある。私の中で、うわべをとりつくろう私という人間の世界がある。私は苦しんでいるが、兄たちも苦しんでいるかもしれない。私は兄家族に会いもせずに、お正月を過ごしている。私は私からの世界を知っている。私は私の意味を知っているのか?自分の思考そのものを発展させる?自分の中で、思考と感情がぶつかっているのか?どこまで行っているのだ?私はどこまで行っているのだ?どこまでひどい人間に成り下がっているのか?それとも?ひどくないのか?私は私の中にあるものを壊しくていくのか?その中で、私は私の中で、巨大な世界を創造していくのだろうか?元からある世界の中で巨大な物語を知っているのか?私はつまり?世界を構築するために何があるのか?すでに「私であることの」という文章断片は、70をこえてきたのか?私は私の小説の世界をどこに持っていくのか?私は正常な世界へとかえることができるのか?私は物語のひとつを私自身へのハナムケとすることができるのか?私自身の世界を構築するために、世界を私から私へと存在させるために?一体どのくらいの力を必要としているのか?何も世界にはない。何も世界には、共有できるものはないのかもしれない。私という人間の世界は、私の大切な人からをも否定されうるようなものだ(両親だったり、彼女だったり)。その中で、私は私の世界を構築する。私は私の意識の中で罪悪感があるのだ。兄家族に対する罪悪感だ。顔を出さないことによる罪悪感を感じている。戻るも地獄、進むも地獄のような気がする。私は私の日記の見返しが甘いと感じている。そのことを今日配信で指摘された。嫌われ者と自認しているのに、そのことを私自身、認めるのをできていない。それが、問題だ。私自身嫌われ者であるというのに、人から嫌われ者であることを自己理解としてもちつつ、生きていくのが、できていない。それが、一番の問題だ。私の中で、その世界が共有される。共通される。

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