今日はテニスに行ってきた。テニスをしているときに、それなりに楽しんで履いたのだが、私が楽しんで声を出しているのを、こころよく思わない隣のコートのおばさんプレイヤーたちが、私の悪い噂を話し合っている。(職場を急にやめたこと)そういう考えがずっと頭の中にあって、私の中に渦まいている。おばさんプレイヤーたちが、休憩して何か話しているときに、私のことを話しているのではないか?という意識にとらわれてしまう。そのことを父に言おうとも思ったが、(母は何か早く帰ってしまった、そのことも何か気になるポイントだっただろう。母は帰る前に隣のコートのおばさんたちを見ていた。そのことが、何か母が感づいて、先に帰ってしまったのではないか?)そこは言わずにおいた。父は何も気にしていないようだった。母の知り合いが隣のコートにいたのかもしれない。私とやるリスク。私とテニスをするリスクについて、父と母は考えたことがあるのだろうか?
つまり、父と母が何か変な中年男性と3人でテニスをしている。「あの人たち何者ですか?」と隣のコートの人が興味をひかれるのは、当たり前だ。そのこと自体違和感はないように感じる。だが、だが、だ。私の悪い噂を流されたとしても、私は、今現在社会から狙われている、命を狙われているという危険性は感じていない。そして、彼女は言う。いない人のことをずっと考えている人はいないから、勘違いだと思う。確かに職場の人間は、もう僕のことを忘れているのかもしれない。その可能性について、私は考える。そして、そのとおり、かもしれないと感じる。もし、どこかで顔をあわせたとしても、知らないふりで良いと思う。私はもう職場をやめて、ただの一般人、統合失調症になった一般人として、存在している。そのことについて、過去の自分とは切り離して考えるべきだ。過去を忘れ去る。過去を消し去ってしまうことも、また大事だろう。この前の土曜日にガイドヘルパーらしい人を連れたかつての利用者さんを見た気がした(おそらくその利用者さんだと思う、あまり関わりはなかったが、確かにその人だと思う)。今も利用者さんはこの世界のどこかに存在して、遭遇する可能性があるのは、当たり前のことなので、大阪にいる以上、かなり大きな問題として、とらえるべきかもしれない。
支離滅裂だ。何かが、壊れている。私の中で何かが壊れている感覚がする。何よりも、私の中で妄想や、現実との区別がうまくついていない部分。感覚としての感情としての、私そのものをどのようにとらえるか?といったところだ。何を書いているのか、理解不能だが、言葉が出てくるままに、書いていく。私の中で、感覚がしんでいく。現実が、私をそれぞれの中に押し流していく。私の中にそれぞれの世界が、流れているのだ。今日は作業はしなかった。明日はするつもりだ。
続けていくことの難しさみたいなものは、感じている。今日作業をしなかったことによって、私は週5ペースで作業をすることになる。何が言いたい。何も書くことがないのか?
私自身の問題について、どう考えるか?未来は、どこまで私を受け入れてくれるか?認めてもらっているか?現実を受け入れているか?私はできているのか?私はできていないのか?できている、できていない以外に大事なことがある。周りの人とうまくやっていく能力だ。それが大事だ。私たちは、評判と関わってくる。