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私であることの68

 私は私であることの意味を問い続ける。私は私である可能性について考えすぎている。その点について、ひとつ大きな問題にぶちあたる。私は私であるとして、他者はどこにいるのか?といった問題だ。私は他者とともに共存している。他者とともに、存在している。そのことについて異論はないが、他者は私にとって、どんな存在か?ということも、またひとつの問題点として浮上してくる。同様に他者からみた私について、私自身がどう思っているか?について、大きな問題点を抱えているのが、現状だ。私は私のことを他者が嫌っているという幻想を抱いているが、その幻想は、少し頑固なものであり、少し強固なものでもあるのだから、その点について、私は対応策を持たない部分もある。ただ、人に話すことによって、その不安感だったり、問題点を少しずつ、明らかにしていくのが、ひとつの世界なのだ。私は、私の世界を信奉する狂信者ではなく、他者との共存を目指す世界へと一歩かじを切らなければならない。それなのに、なかなかできないところが、この病気の怖いところである。被害妄想について、私は私について考えないようにしてきた。そんなはずはないと考えるより、それについて、まったく意識しないように調整を行ってきた。そのことが、功を奏しつつあるのは、明らかだが、私の中で、まだまだ力が足りないと感じている。私は、私のために、巨大な建築物を建てようとしている。その中で、いかなる物語も、そこには存在しない。ただ、狂信的、妄想的な世界が存在しているだけだ。そのことについて、私は遠くから、それを眺めているようなものだ。私は私の認識を少しずつ改めつつある。私は私の中で、人からどう見られているか?といった問題について、気にしすぎていることは、ひとつ問題点として、あげられるのは、すでに述べたとおりだ。前に何を書いたか、記憶していない。それほど、情緒的であり、即時的な考えで、すぐに考えは消えていくことになる。だが、それとともに、生まれてくるまた違う考えも存在している。愛すべき彼女について、考えるとき、心は温かくなる。私を好きでいてくれる。私の心配をしてくれる大切な他人なのだ。血のつながりはないが、魂はつながっていると感じている。いろいろな苦しみをともに味わってきた人生だったろう。それを、ひとつ、転換して、幸せをつかもうとしている私たちについて、どのような感想を世間は持つだろうか?といったような、奇妙な感覚が、私の中にある。私たちが幸せであれば、それでいいじゃないか?といった絶対的な価値観があれば、その考えはくつがえせるはずだ。私は、私の中で、私たちの絶対幸福を求める。私は私の中で、私たちのゆるぎない幸福感を感じること、ゆるぎない幸せを感じることを何よりも大事にしなければならない。私は不能だが、彼女を喜ばせることができるか?どれほど、のことを彼女にしてあげることができるているか?私は毎日彼女の話しを聞き、彼女に話しを聞いてもらっている。そのことが、相互のコミニケーションという意味では機能しているのだが、私たちという存在を社会から孤立させているような気もする。だが、実際彼女は支援の人や、まわりの人にめぐまれたりして、良い感覚をこの地に持ってくれていることは、とてもありがたい。住みやすいと言ってくれることは、とてもありがたい。私たちの未来にとって、とても良い指標だと思う。失われたものはもちろんある。だが、また得たものもあるはずだ。病気をプラスにとらえるならば、病気によって彼女と出会えたこともひとつのプラス材料だろう。私は私の中にある一つの日記的な物語をひとつ提示しようとしているのか?逆にプラスすぎるものよりも、ありのままの書き出し、ありのままの今の自分を書き出すほうが、楽に感じる。楽だから、良い、というつもりはないが、私の中で、楽に生きることは、ひとつのテーマになっている。様々な事態に対応できるような柔軟性を身に着けなければならない。私は、私のために、ひとつの私の世界を崩す試みをしているのだが、その試みは、成功するのだろうか?何をもって、その試みは、崩れ去るのだろうか?私の世界に対する認識自体を私なら、ゆがめて、頭の 中をプラスに転換できるようにそのように、まわりの人々にも影響をあたえられる人間になるだけで、大きなことである。私は私の中で、それぞれの世界を夢見ている。私は私の中で、私はひとつの世界を試みようとして(いや、強制的にしんじこまされて)そこから、脱出しようともがいている。今がある。私は、今の私そのものをひとつの試みとして、信じている。ひとつ変わった試みをする人間として、私自身を空虚な意味のないものとして、認識するのが、常なのだが、いつ、またその世界観がやってくるか、わからない。私は私の世界を構築するために、私の中で、私をつくりあげていく必要がある。私が変わる(私の行動を変える)といった大きな問題ではなく、私自身の考えそのものをひとつ転換するべきときが来ているのかもしれない。そして、その転換する力を十分に備え始めているのかもしれない。そのことをひとつ私の中で、強く思っていることが重要だ。私は私の世界を構築したが、その世界は、生きるのに、あまり向いていない世界だったから、私は、私の世界を構築するために、私のものをひとつ、脇においておいて、私はひとつ世界を言葉によって、埋め尽くしていくのだ。

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