私は私のテーマを扱ったものと同様に、日々の日記もまた続けていきたいと思っている。私の今日は午前中在宅の作業をして、午後は理容室に行って、そのまま歯医者にも行ってきた。トイレも我慢できて、理容室でも、歯医者さんでも借りることなく、近くの文化施設で、借りることができた。その点は良かったことだ。それにしても、理容室の理容師さんも歯科医師の先生も優しかった。とてもあたたかかった。そのことが、私の昨日書いたような妄想を打ち消すように働いている。私のために、なにか力になってくれそうな(もちろん歯科医師という職業を通じて)気がしている。来週にすでに予約をとって治療を開始することにした。虫歯は何本かあるらしい。理容室でも、もらってきた。何を?年末のサービスということで箱ティッシュと来年のカット代金の値引き券をもらった。予約制なので、待つこともないし、落ち着いて散髪をしてもらうことができる。この点は、とても心地よいところだ。
作業所での作業については、あとの記事で少しずつ内実を明らかにしていこうと思う。今日はとりあえず、私の妄想が間違っているかもしれない、という証拠がまたひとつ積み上がってしまった。母が無造作に私の過去の職場の話題について、いうことも、私の考えていることが、妄想であると、認識することである。しかし、私の本当の問題は妄想ではない。妄想から来る恐怖だ。妄想の中にある恐怖だ。むしろ、人から感じる恐怖だ。私は、ひとりの人間として、人々の中にいるが、その人々が考えていることは、あまりわからない。少なくとも、人々は私に対して、どのような感情を持っているか?はわからない。何も思っていないというのが、本当かもしれない。だが、私の中で、他者との関係性において、他者が私に何らかの感情を抱いていて、その感情が嫌悪である可能性、好きでなければ、嫌いという白黒思考になってしまっている。実際のところ、私のある行為にたいしては、嫌いという感情を持つことは、あるかもしれないが、その感情は永続的につづくものである可能性はとてつもなく低いと感じている。私が、作業所のことを四六時中考えていないのと同様に。なにかある特定のことを四六時中考えていないことが、他の人にも適用されるとすると、むしろ、私は嫌いな人はいないということを特殊なことではなく、普通のことであると認識することができれば、そのことは、私のことを多くの人が嫌っている。私のことを家族の誰かが嫌っているという認識を改めることができるはずだ。むしろ、嫌いという感情自体が、占めるものとしての位置を考えることで、ひとつ、私の中で、どのような意味を持つかを考える必要がでてくる。いわゆる人間としての感情は、強いものがあるが、その強さは、また弱くもなりうるということだ。
私の中で、大きな流れがあるが、その流れの中で、私はひとつの快楽を得るだろう。私は私の素の物語を上梓するだろう。私は、私にとって奇妙な一致をみせる、嫌われているという感情について、その原因を探してしまうものだ。それが、偶然の一致ではなく、必然的なものとして、認識する可能性について、私は、あらゆるものごとを感じるさいの感受性が大きくなりすぎている気がする。私は他人に対して、異常に気にしてしまうし、私の感覚の中で、大きな枠の中で、私を大きな存在として認識させるといった現在点がある。そのことを明確に表すために、ひとつの物語がある。私は兄家族に(特に義理の姉に)嫌われているといったものだ。その点について、私は感じすぎてしまうし、私はいろんな要素を私の兄家族が私を嫌っている証拠に仕立てあげてしまう。その時間まであと10日である。兄家族がやってくるまで、あと10日である。どこまで私自身をこえていけるか?どこまで私自身を自然なままでいることができるか?どこまで私を信じることができるか?どこまで私を私のままで生きようと決断することができるか?そこが、問題だ。