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私であることの65

 私であることの意味を考える。私は私であるが、その私はどこにもいない。私が考える私はすでにどこかへいってしまった。過去の自分と比べても仕方がないことだ。私はすでに力をなくしてしまっている。私は弱くなってきている。あまりにも人に甘えて切っている私の現状に悲しみの中にひとつの今が存在している。私は、私であるが、私の中に私をなぐさめるものはない。それが今の現実だ。私の中に巨大な炎がある。私の中に巨大なカオスがある。私は私をわかっているのか?私は私をどれだけわかっているのか?こういう内省的な問題に関わってくるとき、私はすでに一個の存在へと昇華していっている。そんな気もするのだ。そんな今を感じるのだ。私は、今の私を私へとつなげている。私は私の問題を人々へとつなげている。私は私であるが、私の中の炎はまだ消えていない。私はまだ生きているからだ。私は、思う。電車の駅のホームで、飛びこめば楽になるのか?と。それでも、私は今の生きている生に対峙している。対峙することが大事だ。たいじすることだ。つまりは、私は生きることと向き合っている。向き合うことが何よりも大事なことになってくるだろう。私の中で炎はまだ消えていない。私の中で、終わりのない始まりは、まだあるのだ。私の中で、消えていかない世界の中で、私の中で、消えていかない歌がある。その歌を誰よりも 耳をすませて聴くべきなのだろうか?私の中に大きな私がある。私の中に小さな私がある。巨大な機構の中にうもれてしまう。私は今のような、このような現状について、どのように考えているのか?と問われれば、それは、ことさらに大きな問題と小さな問題に分類できるような気がしているのだが、その点については、私はあらゆるものごとという始まりを信じ切っているものなので、そこを大きな着地点とすることはできないのである。私は何も理解していない。ただ、脳内の言葉に私をひたすように。脳内の言葉に私を満たしていくように、考えている。その中で、大きな問題と小さな問題に分類がされていき、やがて中くらいの問題もうまれてくるのだろう。そのうまれくるものを私自身の意味のなさと意味ありげな現在のように考えていくことが大事である。つまり、極端にいうと、私は私でないような私になりつつあるときに、私は私の中に巨大な炎を持っているのかもしれないという幻想を知っているのだ。意味のない言葉の羅列について、何を意味しているのか?この意味はなんだ?と考えても、なにか意味があるわけではないのかもしれない。意味というものについて、私たちは散々に悩まされてきた。意味について、大きなへだたりを感じているものもある。私の中で巨大な世界が巨大な影をともなってやってくる。必ず光あるところに影はうまれゆくものだ。満ち足りた今について、私は今満ち足りていると信じている。その点について大きな問題となっているのが、存在の問題だ。私は私を存在させているのか?私がいることは、私自身の選択なのか?という問題だ。私は私を存在させているかもしれないが、その点については、いささか疑問が残る。私はただ何もせずに惰性的に日々を過ごしていることについて、大きな問題があるのではないか?というまたそえもののような問題もでてくるのだ。その点についていえば、大きな欠片は必ずしも私を必要としないのだろう。私は私の頭で考えているわけではない。私の心で考えている。つまり、頭なわけだが、つまり脳なわけだが、その脳は整合性のとれた脳ではない。なにか異質な脳の働きだ。私たちの中にあるめちゃくちゃな形のないものごとである。私は今も私の中に私をひそませている。私は今も私の中に私の残った欠片を持っているのだ。

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