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命多き世界を生きるしゃれこうべ

 命多い世界を生きるしゃれこうべ。私は私を活かしているか?今日はテニスの予定だったが、雨のために中止となった。かといって作業所の在宅作業をするわけもない。のんびりした1日になった。配信も久しぶりにした。昔なじみの方が来てくれたが、うまくしゃべれなかった気がする。~な気がする。こればっかりだ。~な気がする。こればっかりである。私の世界の中にあいまいでないものはあるのか?いや、ないだろう。今日もQちゃん牧師のYOUTUBEをなんとはなしに見ている。YOUTUBEでJAVAについての学習も進めていきたいところだが、今のところ止まっている。具体的に何をしたいか?が大事なのだが、具体的に何をするか?が決まっているわけでもない。そういえば、今日は久々にパソコンから書いている。アンドロイド端末から書くと、アプリの設定なのか、改行しない文章はアップロードできないようだ。なので、改行をして昨日はアップロードした(アンドロイド端末で書いたので)。朝の疲れから少しずつ元気になってきた。お茶をこぼしてしまった。パソコン大丈夫か?なんとか大丈夫なようだ。セーフ。疲れのひどいときは本当にひどいのだから、、、。それをのりこえる方法を学ばなければならない。昨日は久しぶりに風呂に入れなかった。今日は入らなければならない。昨日から着替えてもいない。だんだんと自堕落になっている。それを感じている。だんだんと自分が自分でなくなっているような気がする。かつて、自分のことは自分でちゃんとしていた私。かつて自分のことを自分でちゃんとしていたという幻想をもっていた自分(実際は、生活そのものがほとんど破綻していた。部屋の中はぐちゃぐちゃで、かなりひどい状態になっていた)私は片付けをする習慣を持たなければならない。私は掃除をする習慣を持たなければならない。そのことが大事だ。私は私のために私を変えていく必要がある。できるか?できないか?は、わからないが、私は掃除をするよりも、パソコンで作業することを優先させた人間だ。そんな人間に掃除をする習慣が持てるだろうか?片付けるための方法論を学ぶ必要がある。きれいに掃除をするためにものを捨てなければならない。いろんなものを捨てる必要がでてくる。私は捨てるべきもの、いらないものに囲まれて暮らしている。それが駄目なことだとわかっているはずなのに。これからの未来の話しをしたときに、どうしても不安要素として、片付けができないこと、掃除ができないことがあげられる。整理整頓をしなければ、少しでも、整理整頓をしなければならない。少なくとも本を全部売ってしまうくらいの気持ちでなくてはならない。本を出張買い取りしてもらうことは可能だろうか?私の中で、今の冊数を持っていくのは大変だろうな、と感じる。100冊以上はあるのだから。雨が降り続いている。雨音がずっと続いている。これからの未来に思いをはせる。私はずっと続けている。ずっとプログラミングを続けている。ずっと小説を書くことを続けている。私の中にある世界そのものを表現しようとしている。私は私の中にある世界を表現しようとしている。私は私の中にある愛を表現しようとしている。私は私の世界をただ見つめている。私の中にある世界を見つめようと必死にもがいている。私は妄想や幻聴はなくなった。(ほぼ)そのかわりに陰性症状がやってきた。意欲低下や疲労感などがある。頭痛などもあるが、さほどひどくはない。今の現状は症状はかなりの部分おさえこめている状況だ。いい感じだ。いい感じだ。私の中で、テンションが上がっていく。強く静かに継続性が発揮されていく。私は書くことに夢中になっている。書くために生きているといっていい。時代遅れだとしても、時代の悲しみを待っているとしても。私は何を言っているんだ?自分の言っていることに責任が持てない。私は私の責任を回避しながら生きている。~が言った。~の言うとおりだ。すべて私自身の考えはない。私は自信を失っているのかもしれない。鼻水がでている。今日は風邪気味なのか?いや、違う。花粉症かもしれない。私は私であることに疲れてしまったのか?私は私のプラスの側面をみきれていないのか?膝の上にパソコンを持ち上げながら、あぐらをかいて座っている私。そして、その姿勢のまま書いている私。私にとって書くこととは何だろうか?今の私には言語能力の貧困化が見られる。私はいろんな世界を知らない。私はごく小さな狭まった世界しか知らないのだ。それが私のスタイルともなっている。悪く言えば、語彙不足、良く言えば、シンプルなのだ。私は私の性格の悪さを知っている。私は人をいっぱい傷つけてきた。だが、、と思う。どんな人間も生きている限り、他の生命を奪って生きるのと同様に、生きていれば、人を傷つけもするし、人を救いもする。それが現実だ。私は私であるために、生きることを決めた。なんだか、よくわからない構文だが、私の中から生まれてきたものだ。その感覚を大切にしていきたい。大切にしすぎるには、あまりにも妄想と幻聴の世界を知ってしまった。私の苦しみも私の汚れもすべて、私の中にうず高く積もっている。その中で、今から生きていかなければならない。それが、本当の苦しさだ。それが、本当の生きるということだ、とわかる。今ならわかるだろう。その歌の激しさが、、今ならわかるだろう?その歌の厳しさが、、。なおもなおも生きていく。なおも私は生きていくのだ。だから、生きるということから、少し離れて遠くから見てみれば、私の人生、一体どれほどのものだろうか?と思う。ごくごく平凡な一生だったのだ。ごくごく平凡な1日だったのだ。16時を回ろうとしている。時間が過ぎ去るのが早い。私の中に何か異常なものが湧き上がってくるのだろうか?今日は比較的平穏に落ち着いている。どれほどのことができるだろうか?どれほどの生き方ができるだろうか?人を救えるだろうか?その前に自分を救えるだろうか?自分を救うために、自分の歌(小説)を書いてきた。そのことの繰り返しが、私自身を安定させてきた。私の望み。私の苦しみを歌にして書いてきた。そのことが、何よりも重要なことだ。私は私の苦しみ、楽しみ、いろんな感情を音にして、いや文章にして、書いてきた。そうして、私は何も進まない今へと歩を進める。

 話しの流れとして、私は一旦改行を入れた。そのことによってどんな影響があるだろうか?私自身の書いたプログラミングを私自身のブログで発表することもあるだろう。今はまだ、とても小さな一歩だけども、だんだんと大きな一歩へと向かっていく。いうなれば、これは新章だ。私にとっての新章である。今日作業所から先月(9月)の工賃14000円あまりが入っていた。とても助かる。ありがたい。私の中でモチベーションになる。少額でもあるとないとでは、大違いである。福祉サービスはやはり利用したほうが、いいと思う。デイケアにはしばらく顔を出していないが、どうするか?悩んでいる。明日デイケアに行ってみてもいいのだが、そのためには、いろいろな準備が??いや、そんな準備なんて言っている場合ではない。私の中でデイケアにどこかでいかないといけないな、とは思っている。11月に診察の予約をしていたが、いつだっただろうか?記憶から抜け落ちている。紙をもらったはずなので、探して、確認してみよう。確か11月の末くらいだったような気がする。そして、作業所の工賃でいうと、今月はなんと2万の大台を突破したのは嬉しい限りだ。多少なりとも、足しになっていくので、この稼ぎはでかい。もっと高ければ、それはそれで言うことはないのであるが、そこは仕方がないと割り切っている。今自分でやって、それ以上の金額を稼げるか?というと、そんなことはないはずである。書式は書式が書式なりにあるということ。法、やり方と言い換えてもいい。私には私の生き方があって、それ以上でも、それ以下でもない。私は私の生き方を貫くまでだ。私のいけないところには目をつぶってもらい。私の良いところに目を向けてもらったらいいのだが、、、。そんなことを私が望むこと自体が傲慢なのだろうか?雨は降り続く。繰り返す。雨は降り続く。私は昨日お風呂に入っていないので、今日こそは入らなければならない。そのための力をためて置かなければならない。私にとって、私自身の日記を読むことは一つの力になる。私にとって私自身の記録を読むことは、ひとつの力になる。おならが出る。まるで、プスプスと言っている。そんな記述を読んで、不快に思う人もいるだろう。私の中に大きなものがあるだろう。私の中に小さなものもあるだろう。そんな中で、私を生きていくための力となっているのが、やはり書くことなのだ。書くことにより、記述することにより、私は、生きていく。私は私自身を記述していく。そのスタイルに変更はない。私は私の生き方を変えるつもりはない。私は私のままで生きていく。私でいいと言ってくれる人もいる(ごく少数だが)。そのことを頭にいれて、生きていくのだ。皆、それなりにつながりをもって、つながりの中で生きている。それが、苦しいと感じることが多いが、それなりにうまくやっていく術を身につけるべきだ。私は私の終わりを感じるときに、私は私の始まりをも同時に感じるだろう。生きろ!そう、その言葉によって私は救われていく。生きていくんだ。生きていくんだよ。生きろ!と言われる前にすでに生きているんだよ。私は興奮して、うまく言葉を操れない。それが、どうした、それがなんだというのだ??いや、少なくとも、人に読ませる以上、落ち着いた語りじゃないとまずいんじゃない?そうかもしれない。そうかもしれない。それは、それで私を否定する人はいるだろう。それはそうかもしれない。だが、私は、生きていく。私は生きている。そのことが何よりも大事である。私には私の世界があり、世界にはいろんな世界がある。地球上には、私以外の人間がいるし、私もまた同時に存在しているのだ。そのことをよく知らなければならない。私は神が生んだひとつの命だということだ。なんらかの生きる意味を見出すよりは、何らかの生きる目的を見出すべきだと思う。それが彼女を幸せにすることだったり、それが、文章を書いていくことだったりするのだから、それはそれで幸せな人生だったなと思う。たとえ、今亡くなったとしても、それなりに、大きな力は残せたかなと思う。少なくとも、このブログが、すぐに消えたとしても、それなりに足跡は残せたかなあ、と思う。雨は降り続く。今日はまだ3000歩歩いていない。今日はまだ腹筋もしていない。いつするの?今でしょ!懐かしい。なんて言葉だけを覚えているのに、いつまでたっても、先延ばし癖はなくならないなあ。悲しいことだ。悲しいことだ。明日は薬局に晴れた土曜日の午前中にいかなければならない。明日は、いい1日になる。きっといい1日になる。そう信じて、そう願って生きていく。そのとおりだ。そのようになるだろう。世界は、希望で満ちあふれているはずだ。私は生きていく。私は世界の中を生きていく。世界の中を泳いでいく。ゆっくりと浮かびながら、ゆっくりと狭まりながら。何分間書いただろうか?何分間パソコンの前に座っているだろうか?そろそろ終わりにしようか?そろそろ終わりにしようか?また同じことの繰り返し。同じことを繰り返しているが、コピーアンドペーストはおこなっていない。私は私の新しい物語を書き始めなければならない。私は私の新たな物語を繰り返さなければならない。それが事実だ。それが真実だ。それが今にも伝わる真実だ。

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