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← トップページへ戻る 日記

頭の違和感はおさまってきたが、、、

 外の物音が気になる。秋になって窓をあけて過ごすと、たまに物音や他の人の話し声が聞こえてくる。それが気になってしまう。頭の違和感はおさまってきた。今日は出かけていない。この苦しみ、人から非難の目を向けられて、馬鹿にされている感じが、私を苦しめる。それでは、敵のおもうツボではないか、とおもうけれども、今のところ修正するのは簡単ではない。昨日のように外に出ると、特に噂されているとか、悪口を言われてるとか感じない。この逆転にも似た現象をどう理解すべきか?私の中で私のことを知っている人間は限定的である、という意識が芽生えたのかもしれない。最近苦しみが、私の人生にとってどういう意味を持つのか?について考えることも多くなった。苦しみはいわば私にとっての贖罪しょくざい の役目を果たし、私自身で、仕方がないと、私が非難されて、馬鹿にされるのも仕方がないと、思えるか、非難されて馬鹿にされた上で、それでも力強く生きていくんだという意志を持つことが、私に可能だろうか?すべてを妄想ととらえるより、いっさいの罪を背負って生きていくことができるようになることが、望ましい方向ではないのか?と最近は思う。そのような強さを身につけたとき、本当の人生が始まるような気がする。そのためには、妄想内容の記述が必要になってくる。妄想(事実)内容の余すところのない記述を始めなければならない。いずれ、私の小さな記憶容量では忘れ去ってしまう可能性もある。妄想でないと説明がつかない部分もあるし、妄想でない可能性もある部分だが、だが、私は今書くときに妄想内容を記述すると書いてしまった。事実ではなく、妄想だと自分の中では思っているのだろうか?自分の中で整理できていない部分ではある。了解不可能性を秘めている。その了解不可能性にひかれてもいる、ということだ。この了解不可能性と戦っていかなければならない。それが、私の人生となる。その了解不可能性に対する反論は意味があるのか?

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