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私であることの31

 父のことを思い出すたびに夜星は、いつも心の奥底を流れる川のせせらぎを感じる。どこかに行ってしまった世界をつかもうと彼は少しずつベッドから、身を起こす。その先には何の感動もないのはわかっているのだが、そんなことは彼には関係がなかった。彼はベッドから起きる必要があった。朝が迫っている。空が明るくなり始めていた。光がだんだんと雨戸をこえてやってくるのが、感じられた。

 身支度をすませると、彼は街に出た。街には明かりがまだそれほどない時間の奇妙な寒さがあたりをひたしている。涼やかな風が、道路を駆け抜けた。ささやかな思いの中にいる夜星は、さまざまな世界を体験しているような気がした。喜びが不意にわいてきた。この世界に生きているんだ、と彼は思った。昔知っていた友達の穏やかなまなざしが夜星を遠くの世界へと連れていってくれた。コンビニに入ると、弁当を買って、イートインの座席で食べる。朝だからということもあって、イートインには誰もいなかった。弁当のコロッケが少し塩辛く感じた。だが、全体的に味は満足のいくものだった。割りばしも、うまい具合にわれて、とても今日はいい日だと彼は感じた。3年前に言われた言葉を思い出した。

「あなたは私を見ていない。あなたは私の姿を見ているが、私の心を見ていない。だから、私の心はどこにもない。あなたが見つけてくれないから」夜星は、その言葉を聞いて、「詩的だね。なんだか情感をそそられるよ。君と寝たいという欲望はなくなったけどね。心はどこにもないさ。脳の中にある機能みたいなもんさ。それを君は考えていない。だから、君を抱くことはできない。もう2度と」

 彼女は夜星を不思議そうな目で見た。アマゾンの奥深くにまだ見つかっていない珍獣を見つけたとききっと人はこんな顔をするのだろう。そう。そこには、微妙な興奮も混じっていた。だが、彼女は知らなかった。夜星が不能者だということを。だから、彼女は彼と寝たいと思っていたが、それはかなうことはないのだった。

 夜星は奇妙な夜を過ごした日にその女性にあった気がしたが、記憶があいまいで、とても彼の脳力に耐えうるものではなかった。彼は忘却の彼方にいた。色々な記憶が積み重なって、彼という男を作っていた。彼は何も感じていないのだ、と信じていた。弁当が美味しく感じることも、何らかの間違いなのだと信じていた。彼の横に警備員の服装をした男が座った。おにぎりを食べている。昼間も外で立っているらしく、顔は日焼けして真っ黒だった。大学の頃の名取という同級生に似ていると思った。だが、よくよく見ると、やはり違うようだった。夜星は、父(すでに亡くなっていないのだが)に呼ばれた気がした。「ご飯食べようか」父はもういないよ、と夜星は自分自身にそっと語りかけていく。

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