疲れている。この疲労感への対処法をなんとか、見出さなければならない。私は生きているのだから、疲れている時間も、また一つの時間である。私の構文において、何か特殊なというか特徴的なものは、何かというと、AはAである、という奇妙な構文を導き出すことである。私は私である、という一見すると、何が言いたいのかよくわからない。つまり、疲れから入って疲れに終わるような現実を打破したいと考える。次第に人間存在があらわになってくる。全てのよりどころは、どこかへ行ってしまった。何者も世界の中にあるようだ。疲れさえもそのような物事をかたちづくる。すべての力ない者たちは失われた力を求めている。さまざまな夜が私たちをかわしていく。そのような物事の結論がなおも自然なる人々を生み出していく。かわしていく目と目の視線の交錯が、夜の街へと誘うのだろうか?承知していない壁があるとして、何よりも言葉の意味を理解しようと何事も落としこんでいく。疲れの中に精神活動によって生まれるものがあるとすると?狂えるむとんちゃくさによって、私たちは息をしている。おなかがすかない。その事実を彼方の世界から整えていく。狂えるものたちのうたげが始まろうとしている。私たちは子供たちの始まりをなおも大人への祭壇となすだろう。決して空は夜の道から入っていく。絶望の中から空が続いていく。夜の中からあの顔が出てくるのか?空の中から、巨大な鳥が飛んでくる。緑の大樹のようなその鳥は、彼方への世界への道標となる。世界を説明すること。夢を説明すること。私は考える。空の中にいる巨大な波がどこかへ流れ出ている。私たちは世界を示している。あちらの方角がいいか、それとも別の方角がいいか、と。たとえ、今がどれほど無意味なものであっても、私は誰よりも世界を示し続けている。誰よりもという言葉に自分が選ばれた人間であるというような傲慢さが見え隠れするのだ。その一方で自己批判をやめて強大にふくれあがった傲慢さもまたひとつ私の中から、出てくるのです。生み出されるもの、隠し通されるもの、日々生かされるもの、絶望の大器をあなたから私はもらい受けよう。言葉の中にあるある事実について、いささかの努力も必要としない。それから、私たちの夜がやってくる。世界のすべてはかけらの中にある。誰かの中にあるひどい現実にあなたたちは気分を良くする。そして、言うだろう。あなたたちの世界よ、その通りにあれと、巨大な物語の始まりが絶望へと誘う。朝からの疲れが少しずつ取れてきたような?いや、違うな、少しずつ忘れ去られたような?言葉のすべては夢へとつながる。ただ、ここにある一部をわたしから全部へと至らせるための。