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何でもない今を生きる

 なんでもない今を生きる。何かストーリーめいたものはない。何もない形からすべてが始まると知っていても、私には思いの外力がない。弱い弱い存在だ。人に頼らなくても生きていけるというレベルがとても低い、圧倒的に低いわけではないが、、、、。1人でお風呂も一応今のところ入れているし、ご飯も1人で食べれている。人との関わりの中で、幾多の世界が広がっている。私の中で、閉じていった現実が、今広がろうとしているのか?強烈なタイプの始まりがやってくると感じる。在宅での作業は今日もお休みしている。昨日の夜は疲れがひどくやたらとだるさを感じてしまった。これほど、疲れを感じるのはお風呂に入るパワーにほとんどの力を持っていかれているからか?などと、いらぬことを思う。14時になって日本プロ野球が始まった。私の我流のタイピングがうまく行かないことを知っている。スピードがそれほど乗ってこない。それはそれで仕方がない。タイピングの練習もしなければならないかもしれない。基本中の基本である。私は今、野球をみながら(聞きながら)ブログを書いている。口述筆記(口で言って、書く行為)もいいかもしれない。私の文章作成において、語るような方法で書くというのもひとつの方法ではある。今日はモーニングページはない。あるといっても、今日はアフタヌーンページのようなものだ。昼に書いているのだから。私の状態を少し考えてみよう。疲れはある。朝から疲れもある。それでも、書く力だけは失われていない。書く力はまだ失われていない。それが、何よりも尊い。何よりも大きい。何よりも素晴らしいことだ。去年のことを考える。そろそろ書き始めて1年が経過しようとしている。グーグル・アドセンスは私のアカウントでは使えないようだ。あきらめた。わずかながらでも、アクセスがあって、グーグルアカウントが使えれば、アドセンスの審査にもとおるかな?と思ったのだが??グーグルアドセンスがなぜ使えないのか?そのあたりも調べてみる必要がある。グーグルアドセンスというのは公告を自動で掲載して、その分のお金を得るというアフィリエイトのシステムだ。私というものは、説明がいつも遅い。知らない人に説明する丁寧さが必要だ。私についても知らない人が多いだろう。私の過去を語ることは簡単だ。だが、それが重要だろうか?重要だ、という考え方もある。私の今の思想を語ることも重要か?それもまた重要かもしれない。だが、私という人間に思想があるとして、その思想は一見被害妄想的だったり、人への不信感にあふれている可能性が高い。それが、病根だ。それが、この病気のおおもとであると感じている。そこさえ、クリアしてしまえば、まだ私は復活するだろう。大いなる復活劇。人への不信感がまして、人を信じられないというのなら、別の存在を信じるというのも手だ。人によっては、それが悪魔だったり神だったり仏だったりするわけだが、私は無神論者的な思考を持っているようだが、だが、神という存在については、少し考えることもある。私の神への畏敬の念が、どこまで続くものか?私の神への信仰が自分が救われるための自己中心的なものであることが、明らかになりつつある。それでも、神はゆるしてくれる。だが、どんな人間でも許すのだろうか?社会的にはヒトラーなどは許されない極悪人の象徴として、許されないとされている(特にドイツでは)。それは彼が第二次世界大戦を起こしたり、大量虐殺を行ったからだ。そんなヒトラーでさえ、神はゆるすというのだろうか?そのあたりは、神を信じる人はどのように考えているか、興味深いところだ。あえて、ふれないというのが、最近の潮流のような気もするが、それが、俗世と信仰の世界をへだてる原因となっている気もするのが、不思議なところだ。私という視点ではなく、神という視点。私から見た世界ではなく、他のふかんした視点(つまり神)からのいざない。私たちはどこまでも世界から離れていく。その離れていく中に竹馬の友がいたとしても、その友とは挨拶を交わすことさえないだろう。こういうのだ。こういうのが、無意識的な文章。何を意味しているのかは、後で吟味しないとわからないような文章なのです。私からあなたへプレゼントを渡すとするならば、それは無意識と意識の間に横たわる溝。無意識と言葉の間に横たわる溝なのです。その溝は決して、縮まることのない微妙な違いをもって、問いを立てていく。たとえば、無意識で何かを表現したいという感覚がわいてきたとしても、それを当てはめられる言葉というのは、限られている。どうしても、イメージの世界であっても、なんであれ、言葉にしなければいけないという制約を文章を通して、表現する以上あるということだ。つまり、この意識的な溝とともに、あなたへと至る道が開けている。すべての門は海から始まる。すべての世界は海から始まる。それが私の世界だ。すべての流れは水から生まれる。その世界にあなたは屈しなければならない。そのために、私はまだまだ流れるような時を経ている。疲れがいつの間にか吹き飛んでいる。不思議なものだ。やはり調子のピークとしては午後の13時から14時くらいだなと思う。その時間が一番力のでやすい時間帯である。だからこそ、私の中で、大きな力の中で、配分を考えるとなると、やはり昼の時間帯が大きなピークを迎えることが間違いはない。しかし、私の世界は閉じているなあと感じる。他の要素がでてこない。今日のバレーボールの試合の話しがでてこない。常に自分のことを書いている。常に人のことには関心がはらわれない。久しぶりにサムライソルジャーという漫画を読んでみた。面白かった。久しぶりに最後まで1巻読んでしまった。それとともにセネカの「人生の短さについて」などを読んでいた。暴君ネロの家庭教師として、その最後もまたネロにより、自殺を命じられて、終えるというセネカ。その彼が人生のあれこれについて語っていた。私の中で、心に残る言葉はほとんどなかったような気がする。少なくとも、今書いているときに出てくることはない。何も出てこない。そう。何も出てこないのだ。断片的な読書がだからといって効果がないとは思わない。それなりに無意識の中に刺激として、残っているのだ。残余しているのだ。そう信じて読書を続ける。少なくとも、無意識の中には入って栄養となっているのだから。そう信じている。だからこそ、読書を続ける。だからこそ、文章を読むのをやめないのだ。統合失調症のYOUTUBERの人が私もやっているnoteという文章執筆ブログをやっていて、あれ?本物かなあ?とも思ったが、どうやらその独特な世界観は本物らしいと感じた。だいたい動画>写真>文章 の順でとっつきやすさが違うのだろうと思う。やはり動画の力は大きい。文章的な動画(本要約チャンネルなど)はまた少し違うのかもしれないが、動画は多くの人にとって見やすい。見るストレスが少ない。それならば、すでに文章は必要のない遺物なのか?という議論もでてくる。だが、私は精神を表すには、文章は必須であると考えている。言葉を使った表現方法に文章は確かな力をもった存在であると考えている。

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