私は私である。そのことについて考え始めたのは、つい最近である。自分自身何を考えているのかよくわからない。とにかく私は生き残った。この妄想の世界を(もしかするとそれは妄想ではなく、本当のことなのかもしれないが)。しかし、私はいろんな考えを持ったひとつの人間である。酒もタバコもやらないことに、変な優越感を持っている人間である。勤勉ではない。そのことが私を苦しめる。私は私であるが、同時に誇れるような私ではない。私が私にとって誇れるような人間になれない以上、私は私を肯定する道を選ぶしかない。誰にも邪魔されない永遠の境地。私は私を絶対の自己肯定と共に、いたわってあげる。その事実について、私は今まさに生きようとしている。同時に今まさに死のうとしている。私の中にある私はまだ私をあきらめていない。母はいつも励ましてくれる。また戻るよと、励ましてくれる。このまま朽ち果てるかもしれない私を励ましてくれる。なんというありがたさ。まだテニスを続けろと言ってくれる。そのありがたさ。私はもういいかなと思っているのだが、母はまだあきらめていないらしい。せっかく上手くなったんだから、また戻るよ、と言ってくれる。長い時間がかかるかもしれない。5年とかかかるかもしれない。それでも生きようというのか?それでも進もうというのか?私は私である。しかし、私は同時に私でない部分も持っている。何を言っているのか?何も変わらない変化の中で、何も答えのない問いを問い続ける私たちは世界を構築している私という存在になおも、悲しみを求めているのか?誰よりも、明るくいたいというのではないのか?左の腕の痛み。どこからきた。私の架空の友達。私の架空の世界。私の架空の物語。すべてはあらゆる物事のように、消えていく。はかなく消えていく。誰よりも世界の中で計算しつくされた私という存在。絶対的な今がある。今の神経に今の精神に全てを集中させるのだ。今日も君から世界を新しくするために、火をもらってくる必要性がある。あなたたちの夜がある。あなたたちの世界がある。あなたたちの計算がある。あなたたちの夜がある。人々の世界を統率する海辺のイルカたち。世界からいろいろなものをマグカップを取りのぞいて、帽子を加える。スポーツ帽子だ。キャップというやつだ。ハットではない。その違いにこだわるとき、私は私であることをやめない。まだそこから始まっていない。まだ消え去ってはいない。終わっていない。まだこの世界は終わっていない。同時に終わりを意識する。私たちの中の世界が、巨大な空を表している。疲れ切った空に、夜の光がともなってくる。新しい道が現れる。広い道だ。意識の中で広さを感じる。意識の中でまとまりを感じる。意識の中で人の流れがひとつ曲がっていく。誰もいない。ここには誰もいない。嘘のような形のない人形たちは踊る。ゆっくりとスローモーションのように動く。誰も世界から私を求めない。求めない世界の始まり。私は私でしかない。人々の集団性を恐怖する。人々の群れが恐ろしい。私は私である。同時に私が私たちになることはあるだろうか?本当にその一体性を私に与えるものが存在するだろうか?奇妙な人の群れ。子供たちの群れが、私を断罪しようと歩き続けている。あなたたちは、すべて知っている。すべて知っていて、私を病気にした、とも言えなくもない。それが、もうひとつの可能性。私の中にあるものは、どこにもいかない。私の中にある恐怖はどこへもいかない。私は私の世界を構築している。