×

何をお探しですか?

キーワードを入力して Enter を押してください

コンテンツにスキップ
← トップページへ戻る 日記

家の中にいても書くことはあるだろう?

 家の中にいても書くことはあるだろう?と問われて、確かにその通りだ。私は書くことがないような気になっていた。しかし、実際は無数にある。私の左肩の痛み。横になっているとそれだけで痛みがおそってきたりする。なるべく漢字を使いすぎないことを意識する。私はどのような道をたどって生きていくだろう?どのような未来が待っているだろう?誰も知らない。そんなこと誰も知らないよ、と声が聞えるような気がする。~な気がするという表現が多いようだ。どうしたことか?私の中に何かはっきり書くのに対する抵抗が出てきているのだろうか?自らが何もわからない人間だと知っているのは無知の知という言葉で表現されるが、本当に無知であること(いろんなことに知識がないこと)の苦しみがここにはある。真実の無知。何もない世界に何もない悲しみ。私たちは、どこまで行くんだ。私たちはどこへ行くんだ?また脳の血圧が低下して、倒れそうな気持ちになる。どのような結末を望むか?私は人生に何を望むか?人は人であり、私ではない。それは確かだ。自分の中のネガティブさをポジティブさに変換していこう。辛いことは何もない。ただ、私の中の世界があるだけだ。私は私の中の異質なものをなおも表に取り出そうとしている。強固な地盤に支えられているのか?それとも、羽のように軽いものなのか、私の本質というものは?私は今もきわめて、多様な生に取り組んでいるようで、その実何もしていないようだった。人々はただ沈んでいる。人々はただ喜んでいる。人々はただ世界を眺めている。その通りだ。きっとその推進力は呼びかけによって、世界を祈りから遠ざけている。夜は世界に彩りを与える。星という彩、世界という彩、明日になった。図書館に行くのは明日になった。私は両親にお昼ご飯の時に図書館に行くと言った。だが、実際は行かないことになった。それはそれでいい。だが、この2枚舌。決まってもないことをペラペラとしゃべることをどうにかしたいとも考えている。いろんな人間がいる。ある人はある人に恐怖を与えて、ある人はある人に喜びを与える。その真実を曇りなきまなこで見定めるのだ。私は今生きている。それが、研究のための源泉である。私は生きて、生きていくことについて学んでいる。死ぬことについて学んでいるわけではない。私は世界の中にただ、ひとつのものとしてある。今日も動かずにアイスクリームだけを食べた。ご飯だけを食べている。他に大きな動きはしていない。私は怠惰な生活をおくっているともいえる。そのことをシビアに見つめなおしていくべきか?昨日昔のテニス仲間から、テニスのお誘いめいたものがあった。だが、私はまだ本調子ではない、と断ってしまった。実際、私は今のテニスの状態では、難しいだろう。誘われたところは昔の私でさえ、レベルが高いと感じる集まりだ。しかも、妄想と幻聴の一番ひどいときに、一緒にテニスをしていたから、かなり恐怖感もある。(その時は途中で帰った)彼女がこちらに来るのは、うまくいきそうだったが、やはりうまくいかないかもしれない。まだわからないが、今のプランがダメになれば、また別の方法を考えるつもりだ。彼女にとって実家に戻ることは、かなり嫌なことのようなので、彼女がいずれこっちに来ることは間違いのないものと信じたい。彼女が来てくれるとすると、活動範囲も広がるだろう。そして、大きな変化が訪れることになる。親も彼女のことは気に入ってくれている。(なぜかはわからないが<おい、失礼な>)彼女の正直なところにひかれたのだろう。きっときっと。そして、私のために、伴侶として考えることもあるだろう。私の人生は計算によると、まだ30年近くはある。彼女との人生を歩むにしても、まだまだ先は長い。しかし、この10年あまりはいろいろあったが、あっという間だった気がする。統合失調症からの回復、そして、一般就労をして、働いた。そして、再び統合失調症に人生を支配されるようになってしまった。一時的であるにせよ、そのような事態になってしまったのは、ある。昔に比べて、幻聴も妄想も少ない気がする。(昔の働いていた時と比べても)それでも、外に出れないのでは、何もできない。いや、何もできないことはないが、できることは限られているように感じてしまう。私は、世界の成り立ちについて考えるとき、家の中から一歩も出ない生活にあこがれていたりする。しかし、やっていることは、それとは逆だ。私は、デイケアに行き、作業所に行こうとしている。自分自身、1人で生きること、1人で生活していくことに限界を感じているのかもしれない。彼女が来ることで、その状況に変化がもたらされるのもあるが、実際は、私は外に出て働くことも重要ではないか、と考えている自分もいるのは、確かだ。頭の中にはただ空白がぼんやりと浮かんでいるように、空には雲がぼんやりと(雲にそのような意識があるのかはわからないが、おそらく風のままに鋭く動いているようにも見える)浮かんでいるのだから。だからといって、特殊な構文を構築しようというものではない。私が復活するには、まだまだ長い時間がかかる。まだ長い時間をかけるべきだ、と最近は思い始めている。私は回復基調にはありながらも、まだまだ回復からは遠いと思い続けるのだ。それが、ひとつの私のストレス解消法になるだろう。自分をとことんまで甘やかす。何もしなくていいんだ。その方が回復が早まるから、という気持ちが大事だ。なんならデイケアに行くのをやめてもいい。作業所にも行く必要なんてない。私は私の自由さ、気ままさを愛するようになっている。私は私の人生を肯定でき始めている。こうやって一生ブログを書いて、小説を書いて生きていくのだ。なんなら株をしながら、生きていくのだ。株がようやく塩漬けされていたものが、売れた。長かった。かなり長い時間かかってしまったが、無事売れたのは良かった。これで2800円のプラス。まだまだ小さなものだが、結局は根気と粘り気が大事だということの現れだろう。私もまだまだ捨てたものじゃないと思える出来事だった。こういう小さい自信を積み重ねていって、少しずつ自身を回復していく、自信を回復していく過程に入るべきだろう。わたしは、何もしないわたしを肯定する。人に面倒を見てもらって、生きている自分を肯定している。それでいいんだ。それでいいんだ。新しいものは、すぐそこに迫っている。新しい世界観は私を新たな場所へ連れていってくれるだろう。それでいい。それでいいんだ。チャットで、少しゲームを教えてもらった。その人はそのゲームがたいそう好きな様子だった。実際は私はそこまで面白いとは思わなかったが、適当に話を合わせてしまった。だが、それで相手も嫌な思いをせずに気持ちよく話せたのならば、それでいい気もする。久しぶりにメッセージアプリをしようかなとも思う。嫌、でもあまりやる気はない気もする。不思議な感覚だ。私の意志がふたつ同居しているような、そんな感覚結局のところ、私は私でしかない。作業所の指導員は優しいだろうか?優しかったら、いいな。頭ごなしに怒ったり、イライラしたりする人でなければいいな、と思う。いや、まったく怒らない人がいいな、多少ふざけても笑って受け流してくれるような人がいいな。そんな人がこの世界にいるなんて、わたしもふくめて、そのような人間ではないし、イライラしたりすることもある(ただ態度にはあまり出さないかもしれない、それがいいのか、悪いのか、はさておいて)ので、信じられない気持ちだ。少なくとも、職業倫理において、わたしに優しく接するだろう人でさえも、どうかはわからない。そう。私は人に対する不信感が根強い。妄想や幻聴の影響もある。人間を信じることができないのもある。人間の負の側面をあまりにもフォーカスを当てすぎているからだ。その人間の負の側面というのは、もちろん私自身の負の側面だったりもする。それよりも人類にとっての悪い側面を見すぎているのかもしれない。もっと幸せになれるような物語を書けたらいいなと思うが、実際は妄想のオンパレードの物語を書いていえる。それが、どうにかなるのか?それがどうしたのか?と問われたとしても、どうにもどうにもならないと知っているから。わたし自身のそのままの生活をそのままの生き方をただ、このままに世界を存在させている。鼻水が少し出ている花粉症だろうか?

コメントを残す