意識がひとつの世界を保とうとしている。同時に世界の割れ目から大きな怪物が出てこようとしている。子供の声が聞こえる。遊んでいるのか?(遊んでいるのはそうだろうが、何をして遊んでいるかが、問題だ。私の悪口を言うことで遊んでいる可能性も高い。その結論に達するまでには多くの物事をクリアにしていかなければならないが、現実にはそれは難しい)ようするに私は何もかも失ってしまったような気がするのだ。地球の果ての大きな穴の中からやつは姿を現すだろう。それは、恐怖という名前の怪物である。私は恐怖している。何にかよくわからない中において、自分の中にある巨大な泉を過ごしやすくするために何も考えずに文字を打ち続ける。それが流儀だ。それがひとつの整えられた儀式のようではある。私の中にある意識そのものが、何かどこか方向性を持っていくというのは、考えられないのだが、そのひとつの世界そのものが、私を私へと至らせていくのは、実に多くの物事の秘密を明かそうという人々の難しい決断に過ぎないのだろう。何もない。何もないのだ。
「あなたはどこに行こうというのか?」
「わたしはどこにもいかない。ただ、この内部にとどまり続ける」
私は非常に大きな物語があなたから生きていくのだから。訳のわからない言葉の中に何もない言葉の静けさが夜とともに、生きていく。そのままの生命から、そのままのいのちが生まれてくる。あなたの中にある大きな苦しみを私はいやしてあげようと思う。感じることは、あたたかな気持ち。それでも、あなたは私から真実の姿を求めないだろう。昨日から走っていく砂の上の馬たちが、私から巨大な冷徹さで、熱量のある原因をとどめ置こうとしている。
ただ混乱している。ただ、混乱の中にいる。空っぽにした心に何が浮かんでくる?何が生まれてくる?自然の物語の主体が私を調べ尽くしていく。あなたはあなたでしかない。私は私でしかない。この言葉を何度繰り返したことだろう。
実感としてあるすべて。私の世界にあるすべての概念。私はどんな世界を持っているだろうか?世界に触れる。私の心の中は何も生まれてこない。何も出てこない。知らないのは、あなただけかもしれない。何も出てこない。何も生まれてこない。静かな物語の終わりと始まりが、出てくる。私の事情をあなたの事情でうめつくしてしまうように?何か世界が埋め尽くされていく。何か世界について消えていくものだったから、あなたは嫌なものを与えようとしているのだ。私はただ何も考えずに、言葉の連続に身をうずめていく。その姿はどこにもいかない鳥。どこにも飛ばない鳥のようだ。動かない彫像はまもなく完成する。私の内容が即物的なものになっている。ダメだ。それではダメだ。熱が、パソコンの熱が私の中から出てくるのだ。何も意味のない虚しい言葉。影響を受ける人生のひとつ。私は妄想の中を消していこうとしても、なかなかできない。私は生きるべきだ。私は生きなければならない。その思いが、私を流れの中に身をひたすことへと向かわせる。消える。消えていく。何もかも消えていく。
今日の流れについて理解していこう。朝7時半頃に起きただろうか?またDAZNの野球を見た。そこから朝ごはんを食べるために1階に降りる。ソーセージハム、目玉焼き、にがうり、キュウリの漬物、玄米ごはん、プルーン。いいものを食べている。まったくなんて幸福な良い食べものを食べているんだ。と自分でも思う。そこからアイスコーヒーを2階にもってあがる。そして、大谷翔平の投球を見る。何を求めているのか?何を目指しているのか?プログラミングをフリーランスとして、やっていくことができるならば、それはそれでいいが、他の人から学ぶこともまた大事なので、あまり意味のない学びになってしまうかもしれない。独学一本でやっていくには、無理なのかなあ?また出てきたよ。何をしても”無理”無理無理。何もないだろう?そこには何もないだろう?寝転びながら、パソコンを打つのは、負担がでかい気がする。少し考えなければならない。横になって、生きていく。何もせずに生きていく。そのすべがあるか?そのすべはないか?私は生きている。生きているから笑うんだ。世間の風あたりもどんどん強くなるだろう。社会の風あたりも強くなるだろう。彼女は疲れている。ちょっと出口が見えない形におさまっている。私は私の物語をつくっていく。歩いて行く。生きていく。話していく。
「今日の私の物語を語ろうではないか!そのための筆記体だ。そのための筆記なのだ。何を言っているか、わからない?それは、私も同感だよ。筆記することと、筆記体にどんな関係性が?いや、いいんだ。そんなこといちいち振り返る形で、物事をつむいでいくことは?いや、だが、案外、これが正しい物事の進め方なのではないか?とも思う。前述した文から、あとの文を作っていく。書き方の指南でもしてるつもりか?と悪魔がせせら笑う。私はそのようなつもりはない。ただ、私の物語を書いているだけだ、と私は強く主張する。人々は涙を流す。私たちは、皆涙を流す。強くあらねばならないという現実に、私は何者にも変えがたい変換を与えられるだろう。意味のわからない言葉、意味のわからない人々。それでも、何らかの意味があるというのか?それを見出すことができるのか?
パソコンからスマートフォンへ移行。なんだか書くことによる異質性に感覚が遠のく。どこまで行ってもそこには、遠い世界の出来事がある。構成されていない出来事の中をゆるやかな風が吹いていく。父は今日もテニスに行ってきた。熱中症で倒れないか心配だな。11時から13時は暑いだろう。熱の照りつけるテニスコートの中で、私は何を感じるのであろうか?
明日から1週間が始まる。月曜日にはデイケアもしくは泌尿器科に行く(午前中)。午後はゆっくりするか?火曜日は休み。水曜日は通院だ。確か午前中の予定にしていたはず。木曜日は休み。金曜日はテニス。土曜日は休み。日曜日は?まだ決めていない。繁華街にでもくりだそうか?
繁華街に出かけていくことで安心すると言っていた統合失調症の人の気持ちが少しわかる気がする。私が、多くの人の中で、1人になるのだ。そのことが、私にとって心地よい。何か大勢の中で攻撃を受けないという事実が私に安心感を与える。そのことを思い出す。もう繁華街に行ってから2週間になるだろうか?
思い出す。あの楽さ。あの心地よさ。少しずつ乗ってきたような気もする。少しずつ乗ってきた自分がいる。小説を書くということ。そのことの難しさや構成について、私は何も考えずに書くことにこだわっているようだ。その執着はどこまで行っても私という人間を形作る原石となっている。それを続けよう。それが真実だ。それが一部の中と全部の中でと信じられるならば、私は全てを信じよう。どこまで行っている?あなたはどこまで進んでいるのだ?私は本を返しに図書館に行こうか?どうしようかな?迷っているのかな?私と言う人間は何を考えているのか?
フルフィーというアプリで、相談を受けている。人の悩みを聞くのは大変なことだが、私はそれほど苦にしていないのは、共感能力が欠如しているからだろうか?それとも、距離感をうまく取れているのだろうか?よくわからないが、今日は彼女と話したかな?いや、話してないか?図書館に行かないまでも、夕方散歩に行こうか?
なんだ?両親が何か話しているのか?私のことについて何か話しているのか?何をこのタイミングで話そうというのだろうか?奇妙だ。私が外に出ないことと何か関係しているのだろうか?何かあるな?何かある。と私は感じる。