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← トップページへ戻る 日記

記憶への恐怖

 私が行ったことに関して、多くの人が怒っている、恨んでいる、憎んでいる、ということを感じる。記憶は常にあるようにあり、私はその中で、きょうだいな深淵を覗きこもうと包まれている。私は私でしかないのに、私以外の何者かになろうとして、私は空回りしているようでもある。

 どこにもない偶像から、消えていく屍の姫たち。どこにもない巨大な空に架空の城が出現していく。消えていく世界の中で、独り言をつぶやく住人たちの群れ。残るのは言葉だけ。知っているのは夜の闇のみ。清く美しい曲線美そのものが、私の中にない。綺麗なものを描こうとするな、と戒める。そういう幻想に浸ることもなく、私は現実へと戻ってきた。

 今日の起床は7時ごろ、その後また寝て7時半ごろ、昨日の野球の試合を見て、大勢に久しぶりにセーブがついたようだ。今日は父と母がコンサートに行くようだ。言葉が出てこない。なぜだろうか?何か自分の中に変化があるのか?あの言葉湧き出るように出ていた時代が懐かしい。刺激が少ないからか?外に出ていないことによる刺激の少なさが、私をうちにうちに深めさせているのか?どうしたことだ?間もなく父と母が出発する気配を感じる。常に気配に敏感である。私は極度に人の気配に敏感になりすぎている気がする。

 何も出てこないようで、何かをひねり出したいような気持ちである。だが、残念ながら、出てこない時は何も出てこないものだ。

 そんなこんなでダラダラと書き連ねる。何をどうすべきか?わからない。何も混乱の中にある。すべては混沌とした世界の中にある。私はそういうものを求めていたのか?それとも、そんなものは、とうにこの世界からなくなっていたのだろうか?何がなくなっていただって?よくわからない。思考自体が明晰さを全く持たずに、混乱の中に沈んでいく。

 家の中を3000歩弱歩いた。配信をしながらだ。配信の最後にお互い無理せずに頑張りましょう的なことを言ってくれる人がいた。うれしかった。そんなこんなで今日はなぜか筆が進まない。筆が進まないという表現も今ではとても格式ばったものになっているのかもしれない。とりあえず午後3時くらいに風呂にはいれたので、それは良かった。お昼ヤクルト中日戦を見ていたら、延長で4時間ゲームになっている。中日が先行していたところをヤクルトが追いついた形だ。今日は土曜日だ。両親はテニスに行った(午前中)。私がいつか行ける日は来るだろうか?なかなか難しい日が続いている。その日の調子で決めていいのなら、行ける日もあると思うのだが、そういうやり方が、主催している父にとって良いのかどうかはわからないし、7月の土曜日テニスは聞かれたので、「やめとくわ」と断ったので、7月の分の土曜日テニスはなかなか難しいことになりそうだ。他の曜日に毎週とってもらって両親もしくは父と一緒にテニスをすることになっているが、それも未知数である。この前は暑さのせいか、あまり楽しめなかった。あれほど楽しめたのに、、、。そんな日もあるさ、と言い聞かせる。思考の連なり、思考が次から次へと湧いてくる、ことをイメージするんだ。そうすれば、意味のない言葉の羅列でも、問題なくできるだろう。問題なく、そう、問題なく。それが大事だ。問題がありすぎて、たまりまくっているような気がするが、現実にそう別にないのかもしれない。ただ、自分で問題を作り出しているのかもしれない。進むべき道はいまだに決まらずに、どのような将来を思い描くかも、ない。そのような現状に少し焦りながらも、あせるな、あせるな、と言い聞かせている。私は、頑張れる人間ではない。というより、頑張ることをやめた人間だ。頑張るという人生を放棄した人間だ。だから、体調第一。病気の悪化を防ぐことを第一にしている。そんな生き方で何を得られるのか、わからないが、当面の方針はそのようなことである。

 あの、とか、その、が多いことに必要以上に気にしすぎるのも、また逆効果というか、精神衛生上良くないので、気にしないことにする。あれをこれして、ああして、とか、それでいいじゃないか?もう、それでよくないか?自分にどんどん甘くなる。自分にどんどん優しくなるともいえるかもしれない。そんなもの誰も見ないよ、という人もいるだろう(誰にも言われていないが)。だが、それもまた一興よのうと、扇子でパタパタとするくらいがちょうどよいのかもしれない。未来をみれば、いくらでも不安要素は出てくるし、プラスの面を見れば、いくらでも、プラスの要素は出てくるだろう。そう。ただ観測点におけるプラス面とマイナス面の比率の問題であり、プラスの方を見ようとすれば、見れるはずだ。どんな時も、またいろんな可能性があり、その可能性を狭めてはいけない。人には人の事情があり、人の生活がある。それについて、立ち入ることはない。人に対しては距離を置いて接していこう。距離感が近すぎるのも考えものだ。距離を置く。距離を開くということ。

 何か意味のないものを意味のあるかのごとく?調子は良い。なぜかわからない。土曜日だからか?両親が出かけているからか?一人の時間が多いからか?3000歩歩いたからか?余計なことを考えていないからか?彼女と話す時間が長いからか?内部的なものとは裏腹に信頼できる彼女がこちらに来てくれるというのは、とても心強いことだ。うれしいことだ。

 巨人対広島戦を見ている。何か恐怖が襲ってくるようで、とどまっている。何かせき止められている感じだ。どういうことだろう?何かがあったのか?自分自身を分析することはできないが、できたとしても、理性を保った状態か、どうかはわからない?(理性そのものが、狂える原因になっていることもありうる)言葉がうまく出てこない。どうしたことだ?何もできずに朽ち果てるのか?いや、そんなことはない。何もできないことはない。私は文章を書くことができているからだ。だが、苦しいのは言葉が出てこないとき。意識の流れをつかめないとき。私は声を聞いている。声というより音だ。巨人対広島戦の音だけを聞きながら、ブログを書いている。良い流れではない。良い流れではないとかんじつつも、悪くなりすぎないように、悪さが顔を出さないように、、、、。

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