朝からテニスに父と行ってきた。朝起きたのは8時前。出発したのは8時40分ほど。免許証を忘れて運転できなかった。父に負担をかけてしまった。ポツポツ話しをした。テニスを暑くて1時間ほどで終わった。疲れた。今日は風呂キャンセルかな??体力はなかなか戻らずだ。言葉を出すことも苦しい。働くことの苦しみ??働かなくていいことの苦しみ??私は現在働いていない。それでいいんだよ、と言ってくれる。それでも、私は気にしてしまう。言葉がうまく出てこない。ドジャースは今日も順調に勝っていた。大谷選手も出場していた。明日はもう土曜日。結局、泌尿器科も行かず、デイケアも行かずの1週間だった。1人では何もできなくなっているのか?それでも、月曜日は、少し遠出をしたような気がする(火曜日だったか?)水曜日もカフェに長時間いた気がする。(なんか店員さんと話している初老の男性が、やけに気になった。何か私のことを言っているのではないか?と気になる。人生いろいろなことがあり、それがどのように展開していくか未知数だ。もっと自由でいいんだ)もっと自由でいいんだよ。と私自身に言い聞かせる。この1週間の振り返りをするなんて、金曜日だからだろうか?泌尿器科はいつ行くの?来週?または明日?調子の良い日に良ければ良い。言葉にするとデイケアに行けなくなってしまうような気もする。明日も思えばデイケアはやっているので、行けるはずなのだが、わたしの中で、その選択肢はないようだった。誰かの声が聞こえる気がする。弟たちの声?いや、何も聞こえない。なんの声も聞こえない。何も気にならないわけではないが、気にする力は薄まっている。
代わりと言っては、なんだが頭痛のようなものが出てきている。ジアゼパムを飲んだがおさまらない。最後のロキソニンを使うべきか?
17時29分。最後のロキソニン。夕食後の薬を飲んだ。それでいい。それでいい。と自らに言い聞かせる。どうも、調子の悪しがはっきりしない。こんな調子で彼女に会えるのか?楽しみにしてくれてるか?と彼女から聞かれる。もちろんそうだが、不安も大きい。私にとって異性とうまくやることは、同性とうまくやる以上に難しく感じられるからだ。単純に私は彼女の好みに適さないかもしれないし、傍若無人なふるまいをしてしまう可能性だってある。暑い中、配慮の行き届かないことをしてしまうかもしれないじゃないか?と自分に予防線でも貼っているかのような、どうにも自信のなさそうな私。そうだ。自身はない。自信もない。私はどこへ行ってしまったのだろうか?奇妙な意識の中を浮遊している。打ち間違いが、多い。疲れているのか?昨日はそこまででもなかったのだが?
昨日からの問題に終止符をうつべく彼女から教えてもらった方法で、ブラウザをある時間が来たら強制終了するように調整した。これでおっけーだろう。夜中中DAZNが流れているということはなく、安らいだ睡眠をとれるようになるだろう。弟たちが帰っていく音がする。ああ、元気でいてくれよ私には何もできないけれど、と無力感にうちひしがれる。きっと私のことはうちの兄弟姉妹、親戚にいたるまで嫌いだろうと思う。そういう人間に育ってしまった。母と父は必至で弁護を試みるが、なかなかうまくいかないだろう。社会とはそういうものだ。そういうわけで、わたしは誰からも嫌われていると信じこむ。時に彼女やチャットの仲間にさえ、そのようなことを思うのだから、なかなか厳しい現状である。尿が漏れているのか?何か股間が臭くなっているような気がする。気のせいかもしれないが、ある程度は事実だと思う。トイレに行けば行くほど残尿があり、その尿が微妙に漏れているだろう。そんなことで、まともに社会生活を送れるはずもない。社会の中での落伍者。それが私だ。意識がない。どこか意識が、そちらの悪い方向に行っている気がする。それも仕方がない。私はそういう特性を持っているから。
チャットで同じ病気の人と体験談を話すことは精神衛生上良いのだろうか?と考えてしまう。妄想は話すことそのもので、かなりの苦しみをもたらすこともあるし聞いているほうも精神エネルギーを使うものだと思う。そして、自分が清潔感のない人間であるということも、人前に出ることを押しとどめる要因になっているのだろう。
私は不思議におもう。そして、すごいなと思う。世の中のどれだけ多くの人は社会性を持つためにどれだけ多くのとをしているのか?と改めて、敬意と感服する所存である。何か難しい言葉のみが出てきて、わたしの中の内部的なものは、出てこない。
今日も野球があって野球が見れる。そのことが、良いことだろうなと思う。幸せなことだろうな、と思う。いっぽうで、それが私の幸せなのか?とも考えてしまう。それでいい!と思える日もあった。それでいい!と思える夜もあった。だが、それだけでいいのか?とまた疑問が湧いてくる。それだけでいいのだ。私は野球を楽しめるようになり、順調に回復してきているのだ、と前向きな言葉で締めくくりたい。書いているようで、書いていない気もする。
なんだかんだ、文章として出来上がりつつある。だが、その中に私自身がいないような空虚感に満たされつつあるのも確かだ。私は私の文体を作り上げようとしている。それが、どんなに些末で幼稚なものであろうとも、私は生きているのだ。私は生き抜いているのだ。それが真実だ。私の中に喜びの色が見えるときに、その色は何色だろうか?と考える。きっとオレンジ色だろう。きっとミカン色だろう。その中で、私はオレンジの明るさにおびえてしまうことがある。人々は私に無関心であることを理解するために、私は外に出なければならない。外に。散歩に。私のことをどんな認識で見ているかを理解するために、わたしは歩かなければならない。私は夜の道を静かにゆかなければならない。今日は日の光を浴びた。もう、夜が来ようとしている。まもなく夜が来る。私は夜の街を歩く。それが楽だから。私は夜の街を歩く。それが、ひとつのドグマとなっているから。
活動的だった先週から一転して、活動がおさまりつつある。静まりつつある。私はくるっているのか?私は、力を失っているのか?理性の力を取り戻すのはできるのか?