一昨日の疲れからか、昨日は家から出る気にならず。努力か苦難に対して、立ち向かおうという気もないらしい。生き方自体の問題だろうか?私は昨日7時半頃に起きて、朝ご飯を食べただろうか?珍しく食べたものを覚えている。チーズ食パン(1枚の半分)、いちごバターの食パン(同じく1枚の半分)を食した。それからチャットをする。昨日はよくチャットをした日だった。久しぶりにチャットを長い時間してしまい1日家から出なかった。何か気持ちの乱れのようなものを生じてしまい、それが結実したのが、昨日の文章群である。
そのことは、おいておいて、それだけではない。グッドウィルハンティングという映画をレンタルしてアマゾンプライムで見た。ずっとは見れなかったが、終いまで流すことはできた。そこから、時間の経過。朝が過ぎて昼が過ぎる、私はさらに遠くなった昨日の記憶を思い出そうと試みる。夜は野球を見た。そうしながらも、彼女に調子が悪いとしがみついたようなチャットを送った感覚がする。なんと女々しいことか!
私はそして、19時半頃に寝る前の薬も飲んで、お風呂も入って、十分な歯磨きもして(客観的に見ると不十分かもしれない。その不十分さを隠すためのひとつの形容詞なのだろう)、寝床につく。夢の中でダゾーンチャンネルは動き続けて、レアル・マドリードとユヴェントスの試合を私にぼんやりと認識させた。私は眠ったのだろうか?よく分からないが、きっと私は眠ったのだろう。今日の朝の寝起きは悪くなかった。いつもと同じくらいだった。いつも、そのくらいしか寝ていなかったのだろうか?と疑問に思う。悪夢や夢を見ながら、半覚醒を続けていたのだろうか?
それはいい。その事はもういいんだ。そんなわけで朝7時頃に起きたが、前日のプロ野球の中継を見ていて、なかなか一階におりなかったら、母が私を呼びに来た。きっと朝から出かけるので、(そのことによって、私の妄想?出来事にわたるある認識は、増幅されてしんどくなってしまう)そのために早く食べる必要があったのかもしれない。それとも、私の中で父と一緒にご飯を食べたくない(父を嫌いだからではなく)なんらかの理由があったのかもしれない。
話は今日にすでに向かってきている。そんなわけで、いつの間にか母は出かけていて、私は彼女と通話をする。彼女の話を聞く。ときおり、ふざけたりして、彼女は怒っただろうか?めったに怒ることのない人なので、不思議な人だなと思う。怒るというより、悲しみで感情を表現してる人なのかもしれない。
彼女がこっちに私に会いに来ることを母や父に言うべきか?といった問題がある。母は彼女のことをあまり良く思っていない。何か固い信念(年上はダメ)などがあるのだろうか?だとしたら、やっかいだな。彼女と一緒に暮らすまでにさまざまなハードルがあるだろうけど、頑張って乗り越えてゆく気持ちはある一方で、頑張れるのか?といった疑問も浮かぶ。
私は元来の生来の意気地なしである。そのようなことを知っていたとして、どう人生を進めればいいのだろうか?誰とも何も言わずに進めるべきだろうか?私自身の弱さについて、私はどの程度知っているかはともかくとして、すでにマスクをはずして、店内にとどまって1時間がたとうとしている。今私は喫茶店(いつも行っている行きつけの場所)で、ブログを書いている。私自身の記録としての意味合いもある。だから、誰も読まなくても、あまり気にしないようにしなければならない。
実際問題、とても小さな問題をはらんでいるのだが、その問題は大きな問題へと移っていくのかもしれない。どちらにせよ、今私は喫茶店で、ヴァージニア・ウルフの短編集を読んでいた。短編なので読みやすいなと思った。同時に長編のような広がりを求めてもいるのかもしれない。私は私の書くものについて、いかなる理解があるというのだろうか?わからないが、そのようなことを理解することは永遠にないのかもしれない。喫茶店のレシートに混雑時は90分とあった。混雑しているのかどうかは、わからないが、90分で帰ろうかな、それとも3時間くらい居ようかなといった問題は常に私を悩ませる。
幻聴や妄想が収まってきたとはいえ、何かしらの恐怖感や不安感に襲われる症状は続いている。家にいても、あまり良いことはない気がする。外では、人の声や妄想は気になるが、人の声が、私のことを話していないことが分かるときは、少し安心するのだ。私を喫茶店で誰も観ていないことについて、それも安心するのだ。すでに大きな力は示されつつある。私はこれから回復していくだろう。だが、それと同時に不安感や恐怖感。人と接することへの不安や恐怖がでてくるのだ。
そのことについての詳細な考察をしようとすると、必ずぶち当たる問題がある。家族問題である。すでに私の兄弟は私のことを嫌っているようだ。弟夫婦が夕方実家にご飯を食べに来ているのだが、私はそれよりも遅い時間にいつも食べるようになった。それが、ごく当たり前のことになって、ずいぶんと時間が立つ。なので、中途半端な時間に家に帰るわけには行かない。父と母のところに甥っ子や姪っ子が私が嫌われているせいで、来ない可能性があるのも、本当に父母に申し訳ない。私は独り立ちすべきかもしれない。
そこで、彼女のことが思い浮かぶ。彼女と一緒に暮らせる日が来るだろうか?生活保護で暮らすという選択肢もあるのだが、その場合、親との縁は切れるかもしれないな。その覚悟が私にはあるのか?ということだ。
あせらずに段階的に進めていこうと思う。あせるなあせるな。彼女との関係もまずは実際に顔合わせしてみてからだ。私は通常の人間のように振る舞うことはできるだろうか?私は人間として振る舞うことはできるだろうか?そのことが、1番大きな問題だ。
相談支援に活路を見出すべきか?相談されることで、何か私の中で、何か生まれるのかもしれないとは思う。それは生きがいと呼ばれるものだったりするのかもしれない。だけれども、すべての人に喜んでもらえるわけではない気がするので、その場合は仕方がないと割り切る必要がある。
ウェブデザインなどをもう一度やってみようかなと言う気持ちもある。
壁を挟んだ向こう側にいくらかの席があるのだが、一番近いところで、いろんな人が隣に座っては消えていく気がする。まもなく1時間半。つまり90分がたとうとしている。私はまだまだ立つつもりはない。このブログを書くことで、何をしようとしているのか?よく分からないが、今現状、明日行かないと今週のデイケアは行かないことになる。巡り合わせで、合うデイケア合わないデイケアあると思うが、私の場合どっちだろうか?明日行くべきかどうか、よくわからない。電車で行くとすると、通勤ラッシュかなあとか、考えてしまう。時間をずらして行ってももちろんいいのではあるが、重なってしまうのはある程度仕方がない面もある。なぜなら、人間の生活は、朝起きて、夜寝るというのが基本になっているから。これは、原始時代からのリズムなのか?これを崩したことによって、私のように、病に脳がむしばまれるといったこともあるので、注意が必要だ。同じ間違いを繰り返してはいけない。同じ過ちを繰り返してはいけない。だが、二度目を繰り返してしまった。
そのことによって、脳がだいぶダメージを受けたようではある。かなり怖いところだが、私の脳は以前より確実にダメージを受けている。そして、認知機能障害もどれくらいあるかわからないが、あまりないことを祈る。実際はかなり落ちていて、人の言っていることが分からないなんてことが、現場に出れば起こるのかもしれない。
デイケアの職員さんはとても丁寧に接してくれている。利用者さんと目立ったトラブルもない。なのに、なぜ行きづらいのか?というのは、問題である。なぜ行くことに対して障壁があるのか?思いきって車で行ってみるか?お金はかかるが、ある程度は致し方がない。自転車は暑くて行きづらいだろうか?それでも、自転車で行くほうが楽かもしれない。午前中で帰るとなると、ちょうど正午の暑いときに帰ることになるので、そのことも、大変に感じている。でも、今が一番暑いとき35度なんてそうそうないと思って、自転車通いを続けるのもいいかもしれない。梅雨も開けたことだし、それでいいと思っています。
私の心理そのものに迫ろうという試みは否定されるべきではない。だが、その試みそのものが、私を調子の悪い波に連れて行くならば、それは考えものである。喫茶店はしゃべる人が多い。だが、私そのものに注目しているとは感じない。おととい行った場所で学生たちのざわめきに感じたのとはまったく違うものだ。私の勘違いだろうか?いかなる理由によって、私は調子を崩したのか?と考えてしまう。どこかでトイレに行かなければ、しかし、この店に来てから1時間半トイレにはいっていない。行かなければ、という切迫感もあまりない。
明日の選択肢として、デイケアに行く。(昼から行くことも考えてみていいかもしれない)そして、泌尿器科に行く。おしっこをためて行く必要がある。計量した表も持っていく必要がある。1,2週間後と言っていたので、そんなに焦る必要もないかもしれない。思えば、泌尿器科に行ったのが、まだ先週の木曜日か?もっともっと前のような気がしてしまう。いや、先週の火曜日だったかな?いや、木曜日で金曜日に計量をしたはずだ。だから、木曜日のはずだ。今からちょうど1週間前になる。まだ思ったより時間がたっていないことに少し驚くとともに、少し焦りすぎているのかもしれないと感じている。トイレがいっぱいだ。ここから、ほかにトイレらしいトイレはないから、この喫茶店でトイレに行ってから、でなければならない。
思考の繰り返し。確かに同じところをぐるぐる回っている感じはする。同じことを回ることは人生においてよくあることだ。私にとってもよくあることだ。前に進めるために、私ができることはあるだろうか?トイレわたしがいこうとしてから、立て続けにトイレに行く人が、、、。さらに、トイレの話題をしている人がいる。さらに行くつもりかもしれない。私より長い時間いる人はいるだろう。
もはや、あまりマスクしている人もいない。夏の暑さのせいだろうか?マスクしている人もちらほらいるが、デイケアでも少なくなっている。自らを守るためにマスクをするとデイケアの職員はおっしゃっていたが、確かにそのとおりかもしれない。思考の渦自体はありうるものであるから、私は静かにその間にある世界を見つめている。すでに90分が過ぎた。まだまだいるぞ!という根性?いや、これは根性ではない。まだまだいるぞ!と言うあつかましさ。そのあつかましさは、私に必要なものかもしれない。
デイケアでも、誰かに嫌われているかもしれないと、足が遠のくことのないように。皆いろいろな思いをしている人もいる。デイケアが合わなくて、辞めてしばらく無職で過ごした人、デイケアで他の利用者とトラブルになり出入り禁止になった人。いろんな人がいるのである。そんな中、私の細やかな、いや、繊細な精神のせいで、私自身の力を狭めてしまわないように肝に銘じるべし。まもなく喫茶店を出て、少し夕方の散歩をしようか?90分を15分ほど過ぎた。店員に動きはなし。トイレ掃除をしに横を通ったくらいだ。何かおっちゃんが店員さんと話している。店員にはこんな雑談力も求められているのだなあ、と難しさに驚く。いろいろなことやってみてもいいが、向いている仕事はないかもしれない。介護系で、老人ホームの世話などをしてみてもいいかもしれないが、どうだろうか?障害者雇用であるだろうか?何か私の中で、そういう仕事は好きなのだろうなあとは思う。同僚との関係性はうまくいかないとしても、、、、。そう、そこが問題だ。
客のおじさんが、店員の人と何かしきりに話している。私のことではないか?とちょっと思うが、視線は私の方を向いてはいない。だが、店員の視線は私の方を向いているようでもある。たばこを吸っている喫煙室にいたおじいさんが去っていった。まだ、何か客のおじさんは話している。何の話をしているのか?いまいち、聞こえない。何かこちらを見ている感じはしない。ただ、店員さんと話したかっただけかもしれない。そのおじさん?おじいさんは、私とは違う壁際の席に座った。帽子をかぶっているが、出るつもりなのだろうか?2人連れらしい。そろそろ出る準備をしているらしい。出る前に私を見るだろうか?いや、見ていない。私を見ていなかった。私とは関係がないのかもしれない。店員も私をガッツリ見ている感じではなかった。何となく私の方を向いているような気がした。
マスクなしで過ごす試みについて、暑いので、外や路上でもマスクなしで過ごすことをやってみようかと思っている。どうなるかわからないが、私の中で、マスクなしで過ごすことに対する苦手意識みたいなものは、薄れていくのだろうか?
とめどない意識の中で、いろいろな考えや思考が出ては消えていく。どうなってしまうのか?私の心と体はどうなってしまうのか?少なくとも、私の心は、家に居続けると不調なようだ。最近は特にそういう傾向が強い。母は出かけると言っても、行き先は聞かない。そういうものかもしれない。それでいいのだ。
急速に人の輪の中にいる安心感。少なくとも表向きは社会の歯車の一員として、生きていることに安心感を持っている。ぼちぼち歩いて帰ることにする。遠回りして、ぼちぼちと帰るのだ。道を間違えてはいけない。弟夫婦とは違う道で会わないようにしなければならない。それが、当たり前なのかもしれない。私にとっての当たり前なのかもしれない。