今日はデイケアに行けなかった。いや、行かなかった、という選択をしたように思える。明日行くか、どうかはわからないが、明日デイケアがあることは事実だ。私の中で、少し妄想が顔を出そうとしてきている。何か大勢の中の安心感から、微妙にお互いを知れる距離にある恐ろしさみたいなものを感じた今日だった。外に出ることは出れたのだが、電車に乗って少しだけ遠出をした。中高生が多いのが、私にとってかなりつらく感じた。というより、学生服姿そのものが、何か私の忌まわしい学生時代の象徴であるように感じてしまうからか?帰りの電車で私の隣の席があいていた。まあ、あいていたといっても、2人分くらいだし、その他の席も同じようなものだった。ただ、私の容姿そのものが、決して人に近づきたいと思われるものでもないことは、重々承知するべきかもしれない。そして、そういう自分を認めていかなければならない。悔しいが、そういうことだ。残念ながらそういうことだ。
さて、安いレストランで、コーヒーゼリーなどを食してきたわけだが、なんだか時間はいっぱいあるのに、ガツガツ食べてしまったようで、なんとなく自分自身の行動に納得がいかなかった。こういう思考そのものが、私を傷つけるだろうことは、重々にわかっていながらも、それをやめずにはいられない。とりあえず薬を飲もう。薬だ。飲んだ。ふう。少し落ち着くだろうか?落ち着かないかもしれない。どうだろうか?調子はそれほど崩れていない。ごはんに呼ばれたごはんに行く。家族との会食。多少の恐怖。何かあるな、何かあるな、と感じてしまう。
食事を食べて、食後のアイスコーヒーを飲む。こうやって書けるだけでも、マシ。書けるだけでも御の字である。このような表現を正しく使えているのかどうか、謎なのだが、(辞書をひくなどの行為はしないので)、勘違いしたまま使い続けるのも、またひとつの姿なのかな?と思う。中高生がやたら、私のことを噂しているようで、そのように感じてしまうということは、それだけ調子が悪い証拠なのだが、やはり、感じてしまうこと自体をコントロールすることは、難しいと感じている。だからこそ、手放すのだ。そのような行為から自由になるのだ。何を言っているのか、わからない?私もだ。私も理解の外にあることを言っている。意識の中から出てくるものが、何なのか?意識の外から出てくるものが、なんなのか?そもそも好きとか嫌いとかいう次元で物事を見すぎなのかもしれない。快や不快の認識として見るべきか?世界観そのものをつくりかえなければならない。嫌われたなら、嫌われたで、それに負けない力が必要だ。
明日はデイケアに行けるだろうか?というよりも、行こうとするだろうか?今から考えると、デイケアに行くことが恐怖に感じてしまう。行かなくてもいいかもしれない。そのような思いをしてまで、行く必要があるのだろうか?不安は尽きない。恐怖も尽きない。ひとつ私の中でデイケアに行くためのアプローチとして変わった部分は、電車でいこうとしていることだ。前は電車で行けたのだが、最近は電車でいくことに抵抗を感じている模様。その精神状態がどこから来たのかは、よくわからないが、知らず知らずのうちに電車ということ(密閉された空間で人が身動きできない状態にされていること)に圧迫感や、恐怖感を感じているのかもしれない。私に通底するのは、常にあるのは、恐怖である。何におびえているのか?と言われればそれまでだが、人間におびえている。人間不信で、人間から害されるという妄想におびえているようでもある。その力は、その妄想力は、こうやって、たまにまた出てくるのだから困ったものだ。それをこうやって書き出すことで、多少なりとも緩和できるのは、良い事だと思う。私は私のあるべき姿をここで記述していこうとすれば、人に好かれ、人に愛される私というものが、見えてくるだろう。だが、そんな日は永遠に来ないとわかっている。彼女でさえも、私の中の偶像や、私の中の弱さを愛している気がする。弱さを愛するのは、良いことだが、弱さをやさしさと勘違いして、愛している可能性がある。愛というのは、熱しやすく冷めやすいものだ。今度会うことで、そのことを証明される可能性もある。かつて、私は両想いだっただろう人と会った。彼女も私に会いに来てくれていた。それをまともに応対できずに、目を合わせることもできなかった。彼女は失望し、去っていった。あの頃からすでに精神病だった。私は、あの頃から病魔にむしばまれていたのだが、それとともに、徹底的な社会コミュニケーション能力の欠如によって、さらに生きづらさを増幅させていたように思う。そんな昔の話は昔の話として置いておいて、私は、今この恐怖に対して、どう立ち向かうべきか、考えて、実行しなければいけない。ひとつはこのブログで吐き出したように彼女に私の恐怖調子の悪さを吐き出すべきだろうか?幸い、彼女はさして、動揺することもなく、聞き流してくれるので、助かっている。ポジティブな部分とネガティブな部分が同居している奇妙な人だ、と思う。私もそういう部分はあるので、それについていかなる指摘も無意味かもしれないのだが??その無意味さ、そのものが、私にとって意味を持つものになるか、どうかは、私のこれからの行動次第といったところである。とりあえず、この恐怖をなんとかする術を見つけなければならない。この恐怖を久しぶりに体感してしまったからだ。何か、学生というのは、ひとつのキーワードになっている気がする。何かをひとつ続けていければ、それだけで、もうけもん、だと思う。それが、私にとってのブログであり、私にとっての文章でもある。その続きに何があるかは、わからないし、一端の進歩もない文章を垂れ流しているだけかもしれないのだが、とりあえず、私は、書くということについて真摯に向き合うことを誓う。というのも、書くことは、私自身をいやしてくれる側面を持つからなのだ。どうしようもないやり場のない気持ちを書くことによって、なんとか鎮められたりするのが、良い点だ。私は、書くことによって救われているといっても、過言ではない。自分で自分を救うなんて、何を考えているんだ?だが、誰も救ってくれないこの世界。きっと私は私自身で完結させなければならない。そのための書くという行為である。このことが、奪われない限りにおいて、私は私であり続ける予感がする。だから、力強く生きていくことができるのだ。書くことによる疲れはもちろんある。一時的に書けないこと。書くことから離れてしまうこともある。それでも、私は書くことをまた2,3日後には、続けるのだった。それが、私という生物の基本原則のようだった。過去形だが、意味はない。~た、という言葉に特別な意味はないように。私は、ただ、このキャノンボールという技をまたひとつ大きなものとして、戴冠する必要がある。私に学ばせてくれよ、この世界。私に世界をつつまれせてくれ、私は私であり続けるために、世界を静めさせる。私は私の力をどこまでも伸ばしていく。とても小さな、とても微力な力だけれども、私は私を静かに鎮めていく。
ここまでいって、私はどのくらい回復しただろうか?と自分に問うてみる。かなり回復している、と実感できる。その力が、書くことによる力が私を取り戻させてくれたのだろうか?それとも、書くことは副産物的なもので、書くことによる内的な意識の変化が私を整えさせてくれるのだろうか?すべてを調子良くすることはできない。同時にすべてを悪くすることもできないのが、この世の真理とするならば、私は、私のやり方で、この世界のほころび、ひび割れから、私自身を救って見せようではないか!と強く意気込んでみる。そうだ!その調子だ!と自分自身に言い聞かせる。きっといい未来が待っている。きっと世界は私から世界をとりあげないだろう。私は私の世界を少しずつ修復していくだろう。生きていくことは大変だ。毎日ヒゲもそらなければ、毎日風呂に入らなければ、毎日呼吸をしなければ、毎日寝なければ、毎日食事をしなければ、、、。生きることは生きているだけで困難の連続である。その中で、どんな人生を歩むことができるだろうか?まだ、早いのかもしれない。まだ外に出るのは、早いのかもしれない。少しでも、外に出なければという思いそのものをいったんリセットするべきかもしれない。私は私のメガネがずり下がるのを感じる。ゆるくなったかな?それとも、もともとそうだったのに、気づかなかったのかな?まあ、コンタクトもあるので、コンタクトを使っても良い。ただ、乱視の矯正がコンタクトではできないのが、問題だ。乱視の矯正ができるコンタクトなんてあるのだろうか?ありそうな気もするが、そこまで探す気もないのではないか?