デイケアに行ってきて、とてつもない疲れを感じる。そんな中、幻聴をともなう妄想が出てきた。職員間の話で「好きになれるはずはない」などというものだ。私の中でストーリーが出来上がる。その職員は私の過去を知っていて、それで好きになれるはずはないと発言したのだろう。ひとつ特徴として、利用者同士はほとんど話していないようにも感じる。そういうものかもしれない。そういう雰囲気がいい、と感じていたのに、今では、それが妄想の原因となっている。いや、妄想の種は利用者さんからは感じない。職員から感じるのだ。少し頭が痛くなった。使い過ぎかもしれない。カラオケも行った。7曲ほど歌ってきた。研ナヲコの夏をあきらめて、サライ、ライライヤ(難しい漢字)、涙そうそう、チェリー、恋の予感、最後に夏をあきらめて ふたたび。アイスコーヒーを飲んだ。すぐから、からは予約が取れなかった。店で直接とった。1時間360円だったか。380円だったか?気を取られないように。デイケアの職員とはドライな関係でいいじゃない。気を取られないようにしよう。そのことを考え過ぎないように、考えから離していく。
今朝は6時半ごろに起きた。すでにご飯はおおかた出来上がっていた。アスパラガスと目玉焼き、餃子を食べる。きゅうりの漬物も。納豆はまた別の日とする。朝から、なんだか気分が乗らない感じ。頭痛や頭の重さはない。デイケアに行くか迷っている。メジャーリーグで菊池雄星投手が打たれた。最近日本人投手よく打たれてしまうものだなあ。大谷さんは好調のよう。鈴木誠也選手もそこそこなのだろうか?最近あまり見ていない。疲れているだろうから、休むのだ。休むのだ。そう休もう。休む大事さ。活動する大事さ。プログラミングで掲示板を作ろうと決める。チャットGPTの力を借りながら作っていこうと思う。今日はデイケアで本が読めた。デイケアでスマートフォンを使わずに寝転がっているだけ。それでも、周りの様子は気になってしまう。彼女と電話で一緒にカラオケしたのはいい思い出となった。今日のことだろうに笑。デイケアに関する一連の妄想めいた話について、私は真実ではないかと疑っている。自分自身の感覚を信じるとそうなる。自分自身の感覚を信じないと世界が崩れてゆく。ちょうどいい具合に、世界の切れ端をつなぎ合わせるように人間をつなぎ合わせることだ。私という人間をひとつのまとまりのあるものへと変化させる。統合失調症の由来から、考えてみる。まとまりを欠いた思考。まとまりとは、何かをまとめること。ひとつの形にすること。それを意図的にではなく、無意識にやれないのは、ひとつの形としては、ありうる話である。疲れはまだあるが、どんどん書き進めていこう。この病の特徴の一つとしては(私の場合だが)、恐れていることを具現化する力がある。恐れている出来事。恐れている物事を、確信めいた見方で見てしまうものだ。そのことの一因に、恐れがある。原初的な恐怖感。そうなったらどうしよう?仲間外れにされたら、どうしよう?という強い恐怖感。そのために、私が寄って立っているものに対して、よく妄想は出てきやすいのかもしれない。(妄想実現恐怖仮説)この仮説を使うとすると、家族のことで妄想が湧いてくるのもなんとなく説明がつくようだ。つまり、家族から見放されるのを恐れている。私の場合、家族がとても病気に対して理解があって、ほとんど私の生活について何も言わないので、それを理解があると言っていいのかは、ともかくとして、私は自由に過ごしている。その自由さによって私はひとつの安楽を得ているわけで、その安逸さを壊そうとするものが恐怖の対象となりうるのだろうか?いや、必ずしもそうなっていないのかもしれない。私は疲れている。にもかかわらず、世界の成り立ちを知っているような気がする。その世界とは、妄想によって幾分歪められた世界である。あり得ないことではないが、可能性のとてつもなく低いことを、私は世界の成り立ちとして、感じつつあるのだ。そのことが、私にとって恐怖感をともなうものであったり、違和感を感じるものであるのが問題だ。人から嫌われることが問題なのではない。人から嫌われるのを気にする感覚こそが大きな問題なのである。とてつもなく大きな原因論はそこにある。私は妄想を感じたとしても気にしない選択肢もあるはずだが、実際は気にしてしまう。そう。妄想だから気になるのか?気になることを妄想として選んでいるのかはわからない。ドーパミン仮説によると、多量のドーパミンが出て、危険を察知する能力が高まるらしい。そこで、とても可能性の低い危険を私は出現させる。ドーパミンの多量さによって、たくさんのドーパミンが出るのだから、危険があるはずだと思いこむ。これが、統合失調症のメカニズムだと言われている。その危険を感じることによって、暴れたり感情を制御できなくなったことは今のところないが、状態によっては、人によっては、他害や自害を行う可能性があることを認めざるを得ない。私の場合は生きることに対する諦めがあったため、死んでもいいと思っていたために、他害や自害を行うことはなかった。人に(主に両親)から、◯されたとしても、それはそれで本望だ、という思考である。実際両親は私を◯さなかったし、私を害することもなかったので、その点は私の完全な妄想であると言わざるを得ない。もしかすると、両親は脅されていたが、私を◯すことができなかったのかもしれない。そんな過去を持つ私について、人々はどんな目で見るだろうと考える。多くの人は理解できない世界を目の当たりにして、私から去っていくだろう。しかし、それでも、この世界で生きていくには、人と触れ合うことが求められているのだ。私はテニスを通して、人々の輪の中に入ろうとでもいうのか?どのような闘病生活を送っても、変わらない私である部分はあるのか?その点は大いなる疑問である。
私は結局のところどんなに頑張っても私なのだ。そこから逃れることはできない。世界は私を包んでいるように見えて、弾き出そうとしていると感じることもある。ああ!世界よ!私をどうかこの世界の一部として在らせてくれないか?