私たちの世界をひとつの形として調べ尽くすように、私の中にひとつの形が生まれ来ては、また去って行く。私はゆっくりと世界を覆う壁を崩そうと試みる。世界には私を非難する声が聞こえてくる。その声に私は答えようとしない。静かな夜がやってくる。とても静かな夜だ。私は君に似ている。私は君のなかにある芸術性をとことんまで追求しようとする。隣で、人々が話している。コーヒー一杯で一時間半に達しようとする客である私。。
旋律がながれる。私の中の奇妙な一説が私の中の巨大な機構と合致する。いいだろう?もういいだろう?と何度かの悲しみを乗り越えた人々。いつまでも居座る井戸端会議の人々。なにを考えているのか?そして、同じくらい一人でこの喫茶店にとどまる私はなにを考えているのか?ついに帽子を脱いだ。帽子をかぶっていた若い男がついに帽子を脱いでいる。室内は帽子をぬぐというドグマに伝わっている。私たちの物語が密やかに進行している。どこかでどこかのための終わりを静かに伝えようとしている。なにを求めているのか?何を伝えようとしているのか?私は世界へと何を伝えようとしているのか?わからない。わからないぞ。何もわからないのだ。
私は外に出て、外の目的に合わせて、生きている。だれよりも世界をせせら笑っているピエロのようだ。私は静かに生きていくことを望む。だが、その中には、何の脈絡もない。私はそこにある静かな一片をととのえ続けていく。わかっている。世界には世界の成り立ちがある。だが、その中で己を通そうという一人の男がいる。私だ。私だ。私だ。私の中で巨大な機構がガチリと音をたてて、動き始めている。人間賛歌は自分への賛歌。私への賛歌は人間への賛歌。嬉しい。私は今人から肯定されて嬉しく感じている。何も世界の中にあることはない。
静かな世界が私から私へと伝わっていく。どこかに行ってしまったのか?私よ。私よ。どこかへ行ってしまったのか?聞こえてますか?私の声が?私の言葉が?私の物語が?何も伝わることのない世界の中で、大きな渦に似た終わりとはじまりが私たちの中からひっそりと導きだされていく。あるいは、そのためにひとつの現実と妄想が区別なく生き急いでいるのかもしれない。何事も世界へと通じる道がある。そのためのひとつの形がある。私はこのマスクを50円分使っただろうか?そんな気がする。さすがに、もうそのくらいは使っただろう。
もういいんんだよ、と私は私に語りかける。右手の動きが悪いのは一種の癖なのだろうと思う。私は私への語りかけを一つの世界のひらめきとして、いつまでも、言葉にしていくだろう。私より前に来て、私より後に帰るというのか?あの二人の老人は?誰かが告げる音がする。誰かが告げない音もある。どこかへ行ってしまった世界の中で、一欠片の星が私を包んでいく。どこまでも、どこまでも静かな終わりの中で、巨大な機構が音を立てて、消えていく。誰かがしっているのだろう。誰かが読んでいるのだろう。その世界そのものを通りがかる人々へのひとつの物語となすのだ。私たちの時間を返してくれ。私たちの物語を返してくれ、と叫ぶひとりの男がいる。それが、私だ。
その男こそ、私だ。雄々しくあれ、と女々しい私が言う。そのような死語を復活させようというのか?無駄なことだ。圧倒的に無駄なことだと私は感じる。トイレへの道に座る男がいたとして、その男はだれよりも変態的であると断じることができるだろうか?何故に世界はここにある。何故に世界は静まりかえる。私の中の世界がとどろくように静かに狭まっていく。
この世界よ、あるようにあれ!この世界よ、忍び寄る影のようにあれ!私は募る。人々の悲しみを募り続ける。祈れ!人々の影よ。祈れ、人々の渦のなかで、、、、、、。