苦しいような苦しくないような。私自身のことを中学生が噂をしていた。「精神科通ってるらしいよ」そんな言葉が聞こえた。橋の上にいた中学生たちは、自転車で走っていく私を全くみない。川のほうを向いて、私にまるで気づいていないかのように振る舞う。さらに、図書館内での閲覧室の出来事。シャッター音がした。その時は、誰かが本の文章を写真に撮っているのだろうと思って(それもあまり良くないことのような気がするが)、放っておいたのだが、実は私を後ろから写真撮影した可能性について考えてもみた。何を目的に?私の髪型がおかしかったのか?私自身後ろの髪型はわかるはずもない。いや、鏡を使ってやれば良いことだが、私は私の人生を書く私小説家のようだと思う。まるですべてが夢のような。まるですべてが妄想のような。テニススクールでは、何事もなかったが、しゃべっているヤンキー風の男2人が、気になった。私のことをしゃべっているのではないかとの疑念。かといって精神は大きく乱れているわけではない。外に出ることも悪くないと考えている自分がいる。外の喫茶店で、昨日図書館で借りた本でも読もうか、と思った。今日は1日雨らしい。父の体重がどんどん減っているらしい。私の体重増加とは裏腹に。何か病気ではないかと心配になる。突然倒れることなどはないと思うが、心配ではある。昨日の夜は中日阪神の延長戦を聞きながらも、ぐっすりと眠ることができた。
来週水曜日は通院日である。なるべくなら、電車で行こうかなと思う。血液検査の結果もやや気になるところだ。薬を飲み続けなければいけない宿命と、薬を飲み続けることによる副作用のリスクを考えながら、どこまでも太っていく気がしている。どうなってしまうんだ。私のお腹。動かなければ、太るのみか?どうする?悩みは多いような、他の人がしたら、少ないような?他の人と比べるものではない。生きることは他の人と比べるものではない。
ただ、何か得体の知れない違和感は感じる。私が言っているのは、どうしようもない現状なのか?それともどうしようもない自分なのか?消えていくのは、いつも私の安心感。安心感、落ち着き、穏やかな生活。それらを求めつつも、それが永遠に続かないことに絶望しているのか?今安息を感じるのは、どんな時か、思い出してみて、具体的に思い浮かばない。これは、残念なことなのだろうか?具体的なものという形を持たない私の思想そのものは、残念な抽象性へと落ちこんでいく。静まりたまえ世界よ。どうか安息の地を私に与えてくれるか?願うのは安息の地。それがどこにあるのか?私にはわからないが、そこに至るまでの道はなお遠い気がする。
何かを書く行為によって気持ちを落ち着けている。私は私自身に言い聞かせている。私自身に語りかけている。私自身の妄想めいた考えを修正するのに役立っている。私は私の考えを書き続ける。私というものはないらしい。諸法無我という言葉があるらしい。私がないとしたら、この書いている私は何者なのだろうか?何を目的とした生命なのだろうか?遠くに行く時に遠くの音が聞こえるように、私は私の声に耳をすませている。
他の人は他の人だ。他の人の人生がある。他者を自らの内に住まわせようとするならば、その私そのものはどこにもいなくなってしまう。私の自意識が中学生レベルにまで高まっていることに私は虚しさを感じている。私は前向きに生きなければならない。前を向いて、顔を上げて生きていかなければならない。それが大事だ。と、自分に言い聞かせる。