今日朝両親と3人でテニスをして楽しかった。ようやくここまで来た。ようやくここまで来たという思いだ。楽しみを感じるようになってきた。統合失調症の症状のひとつである感情の平板化、感情鈍麻から復活しつつあるのかもしれない。だが、油断は禁物だ。今日はネット回線のつながりが悪く大谷翔平の試合を生放送で見ることができなかった。今のところたまにしかないのであるが、これが頻繁に続くと、考えなければならない。昨日はお風呂に入らなかった。疲れはそれほどなかったが、風呂に入る気が起きなかった。風呂に今まではいれていたのは、変に風呂に入ることを意識しなかったからかもしれない。
今の状況はあまりよろしくない頭がカッカする感じで、頭が興奮している状態のようだ。このような興奮の中で何を得られるのだろうか?私は私自身に問いかけるが、どこにも、その答えはないようだった。私は今この頭の状態で、ブログを書いている。そのことで、文字が出てこないということはない。少なくとも、パソコンでも書けている(かけないときはスマートフォンでしか書けない)。そのことが何よりも重要であると感じる。少しずつ前に進んでいる感じがしている。少しずつ前に進んでいるのだ。私は、統合失調症の患者として、いや、患者というか、統合失調症にかかったひとりの人間として、前にすすんでいく。デイケアにも行って、居場所つくりになればいいなと思う。
今日テニス行くときに父と母と話していたのだが、自転車を買おうかなと思う。今私が使っている自転車は電動ではないし、かなり古いので、新しいのを1万円くらいで買おうかなとも思う。シティサイクルタイプでかごがわりと大きめがいいなと思う。
私のために私はいるのか?どこまで行っても、私は私でしかないのか?私は私というものを過度に感じすぎなのか?私というものは、私というものを認識した瞬間に消失するものなのではないか?と考えたりしたこともあるような気がする。実際そんな考えは、今この瞬間に出たものだとしても、今のその瞬間、瞬間に出てくるというのが、実にいいではないか?と私は感じる。私は今日のテニスで父と母と笑ってテニスできたことがとてもうれしい。それが、他人であれば、なおいっそう良かった(なんてことはないが、やはり社会復帰的な側面から考えると良いことだ)のだが、現実は、そこまで行っておらず、私は嫌われている可能性が高い。また一つの考え方として、父と母とテニスはせずに(あるいは3人だけでして)テニスオフネットという知らない人たちが集まってテニスができるサイトがあるので、そのサイトを用いて、やっていくのも良いかもしれない。どちらにせよ筋力が落ちている(父によると)なので、腕の筋力をあげるために、何ができるか、考えていくのも良いかもしれない。
ふわっちというサイトで配信をしているのだが、みな優しい言葉をかけてくださるような方々ばかりで私は嬉しかった。アイテムをくれる方もいて、時給120円というところだった。これが、ルーキーを卒業すれば、まったく稼げなくなるのか、それとも稼げるようになるのかは、わからないが、ひとつの形として、私の中で、配信業というものも見えてきたのだろうか?それとも?いや、書くことに勝るものはない気もする。書くことは好きなのだ。