怖い。怖い。何か、もう怖い。とにかく世界が怖い。人が怖い。未来が怖い。予知不安。予期不安。つらい。圧倒的につらい。今日は母の日で母にプレゼントを渡したいつもと違うプレゼントだから、喜んでくれるか渡すの不安だった。結果として喜んでくれた(少なくともそのように見えた)。しかし、今日何かあるのではないか、と恐怖はつきない。どうしたことだ。精神が恐怖に支配されようとしている。朝から昨日のオリオールズの菅野投手のピッチングを見ている。大谷翔平の劇的なホームランもあったし、流れ的には良さそうなものだが、私の中にあるのは、恐怖だ。この恐怖はどこから来ているのだろうか?私はわからずにただただ苦しんでいる。精神の病気というものは、精神自体をむしばむものだから、精神が壊れていく、そんなイメージを持ってもいる。私は私であるが、私の中の恐怖は大きく私をつつんでいる。またこの表現だ。つつんでいるという表現の多さが私の文章の特徴だ。まったくもって、不快だ。私自身が私を自己分析して批判する恐怖。これは、恐ろしい。これは、真なる恐怖なのだ。私はそんなわけで今書かずにはいられない。書くことによるセラピーのような効果を期待している。彼女と話して、彼女はそんなことないよーと元気づけてくれる。そんな彼女に怒られるのではないか?と私は恐怖している。そんな私をどう見るか?どう考えたらいいのか?一体なぜ、こんなにも恐怖が私を支配しているのか?そもそも恐怖とはなんだ。私の身によくないことが起ころうとしているのか?それを心配しているのか?うーん、わからない。とにかく私は生きている。そのことが恐怖でありい、少しうれしくもある。
ひとつの要素として配信していること、ライブ配信を見ていることというのもあるかもしれない。ライブで人と触れ合う(相手はチャットだが)も新たな試みとして試しているところだ。私は私である。しかし、私は私であることの罪、罰を受けさせられることを恐れている。大阪中の人から嫌われているというのも(実際は1:9くらいで嫌われているのが現実的だろう、((いや、それさえも現実的ではないよ、といえるかもしれないが))そんなわけで、)私は嫌われ者として、この地に降り立った。そのことが私を他者から攻撃されるという恐怖を起こさせているのか?そのことが恐怖の根底にあるのだろうか?私は、ひどい人間かもしれないが、大阪中から嫌われるようなことはしただろうか?と考えてみる。不義理はあった。同僚に迷惑をかけはした。だが、そのことで、大阪の9割の人が私を殺そうとしているというのは、飛躍しすぎかもしれない。しかも、今日感じているのは、そういう具体的な恐怖ではなく、漠然とした恐怖(芥川龍之介のいうところによる ぼんやりとした不安ならぬ ぼんやりとした恐怖)があるのだ。この苦しみをどれだけ記述しようとしても、その苦しさはいえることはないだろう。治ることはないだろう、と感じていた。だが、実際、書くことによって、今気持ちは落ち着き、ゆったりとした気持ちになりつつある。これが、書くことの効能だ!と私は喜び泣き叫ぶ。(実際泣き叫んでいない。あくまで比喩的な表現のひとつ、直喩?よくわからない)私は何もわからない人間だ。そのことをわからないままにしておくことで、素晴らしい天才的な発展をとげることになる。そうだろう?マイフレンド?私は架空の存在しない友達に向けて語りかける。その友達も、また私に語りかけてくるのだろう。だが、私と彼?もしくは彼女?は、永遠に触れることのない力の攻撃者なのだ。この表現をなんと言ったらいいのか?自然とでてきたものだから、それはそれとして、仕方がない面があるのだが、、、。力の攻撃者とは、またなんとロマンあふれるものだろうか?私は私の内的なドグマによって、突き動かされている。内的な苦しみによって、文章は生み出されていくのだ。何もない私はなにも書かない。何も感じない私は何も書かない。そんな当たり前の風景を私は知っている。あの日、あのとき、あの場所で、、、。そこから先の物語は、また別の機会に譲ることとしよう。とりあえず現状書くことによって、私の恐怖は消えていったのだ。消えてしまったのだ。消え去っていったのだ。そのことが何よりも重要である。