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病気にとらわれすぎないこと

 私の母に最近よく言われる。「病気にとらわれすぎないで」そうかもしれない。確かに、そうかもしれない。どうしても病気のことを調べたり、自分がブログのタイトルにも使っているように統合失調症である自分というものを前面に出しつつ、展開していっている。統合失調症のひとりの患者の日記、(ある人の日記で、その人は統合失調症だった、ではなく)として、このブログを書いているために、やはり、私の中で統合失調症というものは、大きい。スペクトラムというもので、ある一定の傾向の中に含まれるものを統合失調症という病気とするわけだが、私の場合、妄想と幻聴のふたつで、統合失調症と先生は判断されたのかもしれない。ある動画で統合失調症の予後が良い人は病気以外の大切なものをもっている、病気にとらわれていないこと、と言っていた。私は今も統合失調症に関することを中途半端に調べたりしていて、本を読んだりしていて、、、、。ただ需要という面でいうと、私の小説家としての顔とともに、私の統合失調症という病気をわずらった人間としての面が、このブログでは前面に出すぎている気もする。

 今日の調子は朝から良い。安定している感じだ。何よりも、病気や体調に多少なりともとらわれずに楽しめるものがあるのが、大きい。私の場合、それは野球観戦となる。朝のメジャーリーグの中継観戦から、お昼の日本プロ野球観戦(平日は夜開催なので、夜)私としては、昼開催のほうが嬉しいのは嬉しい。なぜなら、堪能できるからだ。夜は、疲れか、何かよくわからないが、体が動かなくなってしまう(このおかげで昨日もお風呂に入れなかった)。気持ちの乱れは、以前のようにはなく、乱れは少ない(その代わりに体の疲れやだるさが夜になるとマックスになってしまう)。気持ちの乱れが何らかの変化によって(彼女の状態だったり、両親の状態だったり、何か出来事だったり)起こる場合も、ジアゼパムのとん服を飲めば落ち着くことが多くなり、私自身過去の自分のしでかしてきた行為(突然職場をやめた)について、夢に見たり、考えたりする時間も減ってきたように思う。

 病気にとらわれすぎないためには、何かやることや集中できることを見つけるほうがいいのだろう。そのひとつが野球観戦であり、野球観戦がないときは、寂しくなってしまう。その他に今はまっていることは、ライブ配信サイトのふわっちで、決して見ていて、楽しいことばかりではないのだが、なぜか気になってみてしまう。この状態は、自分の精神状態にとって、あまり良くないのかもしれない、と思いつつ、スマートフォンにもアプリを入れて、通知が来るようになったので、ますます中毒になりそうだ。中毒になったら、なったで、それはそれで病気のことが頭から離れていいのかもしれない。だが、どちらにせよ、このブログを統合失調症の人のブログとして、書く限りにおいて、いつもこのブログを書くたびに、この統合失調症が意識にのぼることは必然となる。そのことによって、私の頭の中には常に統合失調症がよぎることになる。私は、そろそろこのブログを統合失調症のブログから、ただの日記ブログに変えるべきかもしれない。そう最近強く感じている。意識しているままに統合失調症にとらわれるよりも、意識しないままに、私が私でいるように過ごせるように、と生きていくほうが良いのかもしれない。なので、今日例えば、佐々木ろうきのピッチングを見たとして、その分析や感想を書くブログにしたほうが良いのかもしれない。ブレまくりのような気もするが、それでも良いかもしれない。私は私の興味をひたすらこのブログを通して、発表していく場としてとらえているのだから。

 今日の散歩について、今日は午前中10時50分くらいから11時半まで歩いてきた。途中セブンイレブンにも入って、求人雑誌がないかな?とまた見たが、どうやら最近は本当に置いていないらしい。タウンワークなど昔はよく置いてあったものだが、同時に私はブログで稼ぐことをあきらめたわけではない。ビジネスプランも小説が滞っていることから、白紙状態になっているも同然だが、これから少しずつ続けていくしかない。日記として、本を出版するのもひとつの手である。そこに価値がある、ないは読者が判断するだろう。私自身が判断することではない、というのが基本的な私の文筆スタイルである。祝日で日曜日ということもあり、人はとても多かった。小学校の前を通ったら、門番のような地域の方のような人が校門の前に立っていた。平日は立っているのかもしれないが、休日に立っているのは、珍しいなと思った。小学校に用がある人に声をかけるためにいるのだろうか?わからないことだらけだ。私は世界のことを何も知らない。だからこそ、書いていけるものもあると思う。だからこそ、私自身の遊離した世界を顕現できるはずだ。世界を表すのは常に私そのものなのだ。

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