妄想は今のところないが、嫌な感じはある。常にこの病気とともにあるのは、嫌な予感的なものだ。常に内面を探っていくと、人への不信感が根ざしている気がする。そのために人を信じる力が必要なのだが、今のところ家族(両親)でさえ、なかなか無上の信頼をしている状況ではないので、難しい。具体的にいうと、親は何か昔の同僚をはじめとする集団によって脅されていて(言うことをきかないと孫を傷つけるなどと言われている)、私が便秘になるように何か薬を飲ませているとか、具体的に何かを聴いて、私の行動を阻止しようとしているとか、何かよくわからない不信感がある。だから、今のところ完全に信頼できているといえるのは(敵に操られている、もしくは、脅されているのもふくめて)彼女だけである。そういう意味では、彼女は私の良い保護地(オアシス)のようになっているのが、とてもありがたい。その分、ストレスのかかるときも、あるが、それは大変な身のうえであるもの同士、ある程度致し方ないのかもしれない。同時に、苦しいこと嫌なことがあっても、今のところ、それをしなくてもいい環境にあることに、ありがたいと思いつつも、このままでは自分がダメになりそうな気持ちも同時に出てきているのが不思議なところだ。
今の現状について、完全に私は私を肯定できていないのだろうか?と少し疑問に思う。昔みたいに今自分は何もしていないから、価値がないとか、生きている価値がないとか、そんなことは思わなくなったのだが、まだ何か前に進むための原動力は出てこずに、ただ、今のまま物事を楽しめるレベルに終始しているのが、正直なところだ。半年ほどこの生活を続けて、どうなるか、様子を見てみようという気持ちもある。今は完全に病に対して、ストレスのかからないアプローチ、再発をしないアプローチを実践していくことになる。自分が死にたいという気持ちはなくなったのは喜ぶべきことかもしれないが、だが、積極的に生きるというところまでいっていないのは実情である。
とりあえず彼女と通話したりして、少しずつ人と話すリハビリもできている気がする。通話をリハビリなんて、彼女には申し訳ない気持ちだが、実際彼女が望んで喜んでくれているので、それは救いになっている面はある。私自身の人格障害について、どういう状況になっているのか、よくわからない。権威や慣習に対する反発心や、彼女が大切な家族に対して、うまくやれるか?うまくやる気がないのか?など不安な面が多々出てきてしまっている。家族に対して、さえ、ほとんど貢献していない現状について、このままで良しとしたとしても、未来もこのままで良いなんてことはないだろうし、いろいろなことが変わっていくのは、必然である。だからこそ、私自身も何らかの対応をするのが求められているような気がして、あせっている気持ちもある。デイケアなども、その焦りから行こうとしているのかもしれない。実際問題、デイケアでうまくやれるか?というとうまくやれる自信はない。ただ、サポートしてもらえれば、なんとか?と思っている自分がいて、中途半端に宙ぶらりんになっている。デイケアに行くにしろ、行かないにしろ、いろいろな課題があり、人間としての基本的なこと(挨拶をする、人に優しくする、場にあわせた行動をとる)などが、できない(そして、それに対して、改善する気持ちもわいてこない)この根っこの部分が変わらない限り、私は嫌われ者であり続けるのだろうなと感じる。そして、そうすると、私自身の行動によって、統合失調症の症状がより表に出やすくなることになるのだろう。病と闘っているのか、社会の慣習と闘っているのか?人間と対立しているのか?何をやっているのか、わからないが、私は人に死を与えられる運命なのかもしれないと今では少し感じている。