混乱の中。ただ、ただ混乱している中に私はいる。この世界のつながりがすべて私に襲いかかってくるようだ。私は一つの芸術性を私語りと虚しくも言っているらしい。自分のことなのに、~らしいとはなんたることだ!とおしかりを受けるだろうが、実際一番よくわからないのは、自分自身のことだ。何を感じて、何を考えているのか。実際問題謎の意識が立ち上がって、謎の世界につつみこまれていく。なぜ私は生きているのか?を考えると惰性といったものかもしれないが、ひと昔前までは、つらい闘病体験からの復活。つらい闘病体験そのものを書くことによって、なんらかの芸術的価値が生まれると信じていたりもした。どういう脳内回路かは、わからないが、今はそんな気持ちもなくなってしまったかのようだ。つまり、生きる目的や生きる目標を失ってしまったかのようだ。つまるところ、私の内面のつくりかえが行われているのかもしれない。可能性として、私は私でない何かになろうとしているのか?そして、それはことごとく失敗しているのだろう。そして、私は誰からも相手にされずに、1人家の中で文章を書いているだけなのだ。そんな私の日常を誰が知ることになるだろうか?誰が興味をいだくだろうか?答えは誰も関心を持たずに、私はただ、データとして、この世界に朽ちていくのだろう。そういう世界そのものとして、生きてきたのだから、私は苦しみの中で、世界とともにあるのだろう。私は世界をひとつのつながりとして、私の中で、終わりをむかえるのだ。世界私世界という流れが出来上がっている。私はひとつの世界を私への延長として、存在させるのだろう。今こそ、今こそ、と我は、我は、と立ち上がっているのだろう。走り回っているのだろう。それでも、なお、この世界に愉悦はなく、安楽もない。そして、ここにあるのは、なんとなくぼんやりとした世界の果てだ。私はここにある物語を実在の言葉として狂者として、書きとめる。私はここにある世界を実在の脅威として、かきとめる。すべての中にある、まだるっこしい苦しみが、私の中にある開きをつつんでいく。方法としては、いまいちだが、私は生きている。そのことが、何よりも大事だ。私は生きているからこそ、死にに行くこともある。それが、大事だ。私は、私の世界を形づくる。ひとつの塊となる。私は私の世界を形づくる。ひとつの塊となった。同じ反復の繰り返しが私を補強していく。どこまでも、力強く意識体として、私を似通わせていく。私の中にある塊が、実在している空虚さにからめとられていくように。私は世界の中で、ただ思考する。なんの体験も持たない1人の人間として?人間ですらないのか?私という存在は人間の定義を外れているかもしれない。社会的動物ではないのかもしれない。ポリス的動物でないのかもしれない。何も世に問いかけることはなく、誰とも接しない私ならではの世界が、またあるだろうとも思う。体験しない体験を私自身からつくりあげるのだ。空虚な言葉が躍る意味を知らしめるのだ。私は誇大妄想におちいっているのか?それとも、圧倒的に無意味さをつくりあげているのか?悲しみの中にいる1人の存在者なのか?私は私であり続けるために何を犠牲にしてきたのだろうか?何かを犠牲にしてきたのだろうか?私は私の世界をひとつの世界へと返していく。意味のわからない言葉とともに、言葉の中にある無意味さを返していく。いずれこの世界そのものの夢が、必ず世界そのものの夢となるように沈めていくのみだ。