世界の中に渦が潜んでいる。そのことをSは常に感じている。手を上げると、甘いジュースに似たお酒が運ばれてくる。陽気なサンバの音楽があたりに流れている。Sは囲まれた黒い一室に入る。中には男がいて、鋭い目で入ってきたSをにらんでいる。男は大きなソファに腰かけて、上半身を前のめりにせり出している。
「それで今さら何のようだ?もはや、お前を許す気などない。お前は私たちから去ったのだ。私たちを捨てたのだ。そのことを忘れるな」
鋭い目の髪の短い男はわし鼻をしている。怒りをはらんだ目には、憎しみの光が宿っている。絶えず手は小刻みに震えている。薬の副作用だろう。Sは一礼して恐らく自分のために用意されたのであろう椅子に座った。無惨な椅子だった。簡易的なキャンプなどで使われる椅子を思い起こさせる。
「わたしは許されないことをした。それを謝ろうと思ってきたのですが、どうしようもないようですね。あなたや、あなたの仲間はわたしを許しはしないだろう。そのための結末を受け入れはしないだろう。いまだにわたしを殺さないのはなぜですか?」
Sの言葉に男は鼻を鳴らした。吐き捨てるように言う。
「お情けだ。お前を好きな人間も0ではない。両親もおられる。関係のない人を巻きこむつもりはない。といっても、お前の両親もたいそう嫌われているそうだな」
男は凄惨な笑みを浮かべると、嬉しそうに2度笑った。Sは男の心が、どうにもならないことを知って、今はただ生きることに全力を尽くそうと思った。Sの周りの近所の人々はSのことを非難して笑っている。そういう噂を作り上げることに成功した男は、高らかに笑い声をあげる。そして、Sは多くの人に嫌われたまま生きていくのだ。Sは何も言わずに椅子を立ち上がる。Sの背に向けて男は言う。
「おまえを破滅させてやる。お前の全てを奪ってやる。お前の大切なものを跡形もなく残さない。苦しめてやる。苦しめてやるぞ」
男はまたけたたましく笑い声をあげている。とても愉快そうに満足そうに笑っている。Sは思う。かつては、ともに同じ仕事をしていた人間をこのような憎しみの化け物に変えてしまった。申し訳ない。あの男はきっと恨みを抱き続けて生きるだろう。そして、その世界は永久にわたしを苦しめることで、安らぎをえるだろう。その安らぎを、人を苦しめることで得られるならば、それも良いかもしれない。何かへのつきない憎しみを誰かにぶつけることもいいのだろう。
Sは電車のホームで待っている。ここは、転落防止のホームドアはない。まもなくさわやかな明日が待っている場所へ行けるだろう。Sがにこやかに笑っている。こんなSの笑顔を見るのは久しぶりだ。電車がやってくる。Sは動き出す。ああ!ここにあるのは、まぎれもない世界。ふと、体を誰かにつかまれている。眉毛の太い若い男だった。
「大丈夫ですか?」男はたずねる。
「ああ、ちょっとふらつきまして、すいません。もう大丈夫です」
私は言って電車に乗りこむ。電車は静かに出発していく。当たり前のように、何事もなかったかのように。