急にスマートフォンで、書くのが、しんどくなっている。なぜだろうか?パソコンで書く最近である。だからこそ、あえて、スマートフォンで書いてみる。どんな違いが出る?どんな違いもない?意識自体はどこにもいかず、わたし自身の元にあるだけだ。わたしはわたし自身の価値について、残念なことに、かなり見積もって低くなると思わずにはいられない。世間の価値基準に照らして、ということだ。中年よりは若いほうがいい。働いていないよりは働いているほうがいい、などなど。わたしにできること、できないこと。やるべきこと。やるべきでないこと。いろいろな問題。全くない問題。
わたしはわたしであるが同時にわたしでない気もする。ずっと同じところをぐるぐる回っている気もする。日曜日、休日が終わる。どうしたらいいだろうか?どうにもできない夕方である。今は夜がやってくるのを、ただ待つのみ。わたしはわたしであり続けるために、誰かを犠牲にしているだろうか?わたしはわたしであり続けるために、誰かを失っているだろうか?人々はなお我々を見出してくれる。人々はなおわたしを見出してくれる。人々はなお生きることに全力であり続けるのか?生きたい気持ちも死にたい気持ちも、すべてわたしの中から、わきおこっている。わたしの小説は小説らしくない。自意識の塊である。それでよくないですか?でも、自意識の塊でよくないですか?
わたしはわたしを肯定する。わたしはわたしの自意識を肯定する。わたしはわたしの意識を肯定する。わたしはわたしの無意識を肯定する。生きることを肯定する。全ての生命活動を肯定する。人がなぜ人を傷つけるのか?わたしにはわからないが、そういう現実がある、そういう社会がある、そういうシステムがあるということをかたくなに認めなければならない。わたしはわたしを傷つけようとする世界を承認する。わたしはわたしを恨んでいる人々を承認する。わたしはわたしを傷つけようとする人々を認めていく。と同時にわたしはわたしを認識する。わたしは生きていていいのだと認識する。生きるべきだ!と認識する。誰よりも生きることに全力であれ!誰よりも形をなさない水であれ!いや、ごりごりの鉄。用途のよくわからないもの。それが、わたしであるならば、どうやって使おうか?使ってくれる場所、使ってくれる人はもういない。悲しいことだが、今も昔も生きているのだが、一方では死んでいるような気もする。もう、自分に自信を持つことはできないだろう。でも、自分を肯定することはできる。自分を認めてあげられる。わたしはわたしを求めるだろう。わたしはわたしをどれだけでも、新しくあらせる。どういうことか、よくわからない?それは、そうだ、きっとそうだ。生きていることは、きっとよくわからないことなのだから。不可能な理解をもたらす生きることの意味。不可能な死をもたらす生きていることの不条理。不可能な世界をわたしはつくりあげているのか?不可能な人生を捧げようとしているのか?