それでも大きくなっていく。私の中で、不安が大きくなっていく。どうしようもない力で広がっていく気がする。一方で、それを押しとどめようという力もまた体の中からわきあがってくる不思議。どこまでいっても、その先には何もないとわかっているのに、歩き続ける人のように、私はどこかへ向かおうとして、目的地も行き先もわからないままに、同じところをぐるぐる回っているだけなのかもしれない。いくつもの夜が通り過ぎていった。今では、多少、マシな夜がやってきている。それだけでも、それだけでも、良いのだが、さらに、そこから進めていくべき物事はあるのかもしれない。私は多くの人から嫌われているという前提に立って、生活を組みなおしていく。人に迷惑はかけずにできるだけ、自分で完結するような仕事(それが、小説だったり、ブログだったりする)を、やるべきのような気もする。キンドルで細々と小説を発表し続けるだけである。量的な問題と質的な問題と、さらなる進むべき道について、私は考えていく必要がある。こういう書き方をすると、いかにも私らしい、と言えるべき文体を作り上げてしまったのだから、どうしようもないじゃないか、と言いたくもなる。混乱して、明晰な思考がどこにもないようだ。私は慣れない物語を書いている。昔の友達と一緒にテニスをしている夢を見る。ありがたいことだ、こんな私をも見捨てずにいてくれている。まだ、関わろうとしてくれている。そのことが、何よりありがたく、何より私を勇気づけてくれる。
何か疲れを感じた時に、何が空に浮かぶだろうか?私の心の中の空に何を浮かべるだろうか?飛行船もいい。とても、大きく、とても、ゆっくりと動いていく。その姿を私はずっと見つめ続けている。何者も私から離れていくと思ったのは、幻想だったのか?いまだに私を気にかけてくれる人もいるのだ。何か大きな流れが私の中で育ってきている。水をずっとやってきたものが、少しずつ成長してきて、今では、立派な一本の木になっているようだ。どうしようもない朝日が、私を照らしている。私は飛び起きて、豊かな髪をかきあげて、声をだす「おはよう。朝日さん」その声は、どこか低く、静かな落ち着きを持っていた。私からすると、考えられないような落ち着きだ。朝日がそれをもたらしてくれたのか?あなたが、それをもたらしてくれたのか?とてもありがたいことだ。
心象風景というものがあったとしたなら、私の世界には、海が広がっているかもしれない。そして、小さな島があって、そこには図書館が建っている。その図書館には精霊のような無邪気で、優しい人々が通っていて、住んでいる。わたしが本を落とすと、彼らは、私の本を拾って、優しい笑みを浮かべてくれる。わたしに優しい息吹を手渡してくれるのだ。わたしは彼らのことが大好きで、とても静かで、ほとんどしゃべらない彼ら、それでいて、どこまでも、優しく思いやりに満ちた彼を愛している。 どこまで行っても、その先には愛しかない、と感じる。わたしはまっすぐに前を見て、彼らに骨付き肉のプレゼントをした。彼らはにこやかにそれを皆でわけあって食べている。少し食の細い人がいれば、彼らはその人を気遣い、声をかける。その人は、大丈夫だよ、とにこやかに言葉を返す。ほとんど聞き取れないような大きさの声で。だが、彼らにはそれで十分だ。彼らは言葉よりも、すべての情報から、優しさ、思いやりを感じているのだから。彼らは権力なんて知らない。みながみな、楽しい時間を求めているから。彼らは痛みなんて知らない。みながみな痛みを癒すために動いているから。彼らはみな毛糸のあたたかな帽子をかぶっている。彼らはみな夏の暑い時も、あたたかそうにみえるウールのセーターを着ているようだった。彼らは寒さに弱く。暑さに強い?のだろうか?というより、そこはいつまでも冬なのかもしれない。冬の晴れた日の天気がいつまでも、はりついているのかもしれない。誰よりも悲しい歌が、そこから流れいく。誰よりも喜びに満ちた世界が、そこから生まれていく。
話をかえると、どういうことになるだろうか?ひとつの想像が終わり、そこから現実が立ち上がる。わたしは昨日の夜、村上春樹作「海辺のカフカ」のオーディオブック(オーディブル(アマゾン))で聴きながら、布団に入っていた。なんだか、寝苦しい時間帯もあったけど(鼻がフガフガしてイビキのとても大きなものが出てしまったようだった)、おおむね良好に眠ることができた。布団も掛け布団は2枚、実質的にはほぼほぼ一枚でも、苦に感じなくなった(暖房をつけていても、つけていなくても)。また寒い日はやってくるのだろうが、今のところ、私は寒さに適応しつつある。要するに、慣れてきたのだろう。寒さを感じる場面が少なくなってきた。以前に比べて、確かにそう感じている。朝起きて、1階のリビングにおりて、珍しくうどんだったので、うどんができあがるのを待つ。新聞には、日銀の利上げのことや、なんだっけ、忘れてしまった。本当に認知機能障害がひどい。朝見た新聞の内容も忘れてしまう。ああ、そうだ。将棋の王将戦が京都で始まるニュースなどなど。一面を読まずに今日は少し中の部分も読んでみたのだった。隅から隅まで読むとまた違うのかもしれないが、そこまでの集中力気持ちはない。ちょこっと朝ごはんの間に読む程度のものだ。そういえば、今日は土曜日だ。もう病気になって何度目の土曜日を迎えるだろうか?何度、私たちの世界を、つくりかえようと、もがいたことだろう。その結果は良い、と感じる。わたしは自分を肯定する術を見つけつつある。わたしはわたしの文体を押さえつつある。それが、事実であるにせよ、事実でないにせよ、そう感じられることは、とても大事なことである。ありがとう。ありがとう。私の中にあるものは、ひとつのキラメキとなって、いつまでも、残り続けるだろう。この世界の片隅に、私が作り出した世界は、今も、そこにあって、輝き続けているだろう。だからこそ、わたしは笑顔で、みなに言葉をかける。「ありがとう、ありがとう」どこまで行っても、世界には、ありえないほどの奇跡が私を包み、私の人生の軌跡をととのえて、力強く鼓舞している。エネルギーが湧いてきている。どれほどのエネルギーだろうか?少なくとも、この文章を書くくらいのエネルギーは湧いてきているのだ。
そう。そして、私はコーヒーと水筒(お茶)をもって、2階に上がる。水筒は薬を飲むためのお茶が入っている。いつも朝に母が持たしてくれて、プチ遠足のようで、なんだか楽しい。そこで2階にあがって、薬を飲んで、スマートフォンを触る。今日はXのみなの投稿をサラッと読んで、いいなと思ったものにイイネをつけるのだが、今日はそんな気持ちにはなぜかなれずにいた。決してエネルギーがないわけではないが、何か人とのやり取りに疲れてしまったようだ。少し休憩が必要かもしれない。私は結局のところ、あまり人から好かれないし、そのことは、それで仕方がない。それでも、私のことを好きでいてくれる人もいるので、不思議なものだ。ありがたいことだ。ありがたいことだ。私は私のために何かをしているが、結果的に、誰かのためになるようなことになればいいなと思った。私という人間を救えたならば、また他の人という人間も救うことができるのではないか?と1人考える。常にハッピーに。ありえないくらいハッピーに、書いていこうと思う。