私は走っている。どこか遠くの暗い村の近くで。滝の音がする。どこかを水が流れているらしい。まだまだ先は長いと思って走っているのだが、案外近くに目的地があるような気もする。どこかへ行ってしまいそうな私自身の心をここに留めておくために、全力を尽くしながら走る。そこまで行っても、なお世界はゆがめられているようで、少し悲しくなった。私はまだまだ走らなければならないと感じつつ、次第に歩き始める。歩き始めた時に、息がふっと軽くなった。私は私でいることから、楽になりはじめていた。そのことが、私に喜びという感情をもたらしたのだ。私は春の日に散歩をしている老夫婦のように、何か深く長い喜びを感じたかった。それでも、それでも、どこにもない世界が、ここに今現れようとしている。どこまで行っても、青い空しかなかった。どこまで行っても、白い雲しかなかった。この世界に黄色の空や、赤い雲は基本的に存在しないのと同じように。黒い夜が私を望みごとつつんでしまう。私はまろやかなコーヒーの味を思い出す。どこかにあったどこかのコーヒー。知っているかもしれない場所へ、私は知っている道を通り過ぎていく。まだまだそこから、始まっていないのだ。まだまだ、そこまで、終わっていないのだ。私は昼下がりの青い空を見つめて、どれほど進んだだろうか?と1人考える。都市はまだそこにある。そして、私をずっと見ているのだ。私の中にある世界も、また都市とともにシンクロしていっている。私は夜の都市で、ひとり歩き続ける。夜の暗闇は、私に道を教えてくれないが、私は、ひとりで道を見つけようと、トライアンドエラーを繰り返していく。向こうに光が見えた。まだ、そこまで行っていない、と感じる。私は私自身が光に入っていく姿を想像して、虚しくなった。私はここにはいない。どこにもいない世界の片隅で、誰かとともに、のんびりコーヒーを飲んでいる私が想像できる。けれども、その姿は、どこか年老いて見えるものだ。私はもう年齢を重ねてしまった。どれほど正月を抜けてきただろうか?何回大みそかの除夜の鐘を聞いただろうか?私は、その問いに対して、正確にこたえるすべてはない。すべては、過去のことで、計算すればわかることでもある。あえて、そんなことはしないさ、と誰かが私に声をかけてきた。私は思いっきり、声のするほうに向けて、叫ぶ。「しても、しなくても、私は生きているんだ」その声が聞こえたのか、声の気配は消えてしまった。私はひとり残されながら、友だちになれたかもしれないその声を追いかけようかと迷っている。その中で、白い光がまた上がっては落ちていく。こんな人生だったね、とあなたが語りかけてくれる。私はまだ走り続けようともがいているが、実際、進んでいる距離は歩くよりも遅いくらいのペースだった。私は何かに乗せられて、歩いている。何かに促されるように歩いている。何かが私を運んでいると感じた。その姿はどこにもない。だが、そこには、確かに何かがあるのだ。私は静かに足を上げ、静かに足をおろす。その繰り返しのリズムの中で、何らかの力が作用しているようだった。かなりの部分の関節が、音をたてて駆動しているようだ。涙ながらに何かが続いているようだ。しかし、どこかで途切れてしまう気もする。静かな滝を見つけた。ついに、滝が村から都市から森へと世界を変化させていた。すべての物事が整い始めていた。いや、違う。村であり、都市であり、森であるものが、そこに出現したのだ。どこからか、やってきたその姿は滝というひとつの象徴を背にそびえたっている。今こそ、その世界を静めようと、カレーの国の王様がやってくるだろう。だが、甘いリンゴはどこにもないのかもしれない。炒めるべき野菜がそろっていないだけかもしれない。すべては、料理のように整えられ、料理のように実行されていく。時の中で、ひとつの終わりが、始まりとともに、やってくる。どこまでいっても、そこには、形なるものしかない。壁が立っている。どこにもない壁だ。その壁の向こうには、愛があるのか、私は知らない。だが、その壁の向こうには、知らない世界が広がっているのは、確かなことらしい。私は滝を見つめながら、どこか遠くの空を見たいと思った。ここではない、どこか、遠くの地の空を見たいと思っていた。そして、それは叶うのだろうか?私はこの問いから逃げるように滝を見て、滝を感じた。どうどうと流れる水音が私自身のいらない声を押し流してくれるようだった。「負けるな、負けるな」声の主は盛んに私を応援している。そうだ。私は崖っぷちなのだ。だから「勝て、勝て」ではなく、上記のような言葉がでてきたのだ。私は負けない。だが、同時に勝つことも難しいと知っている。私は私であるが、負けない私であるが、勝てる私ではない。そのことは私にとって、とても大事なことだ。知っているだろうか?この夜の滝の音の力強さを。その姿を見て、私は今日も息を吸って、息を吐く。息を吸って、息を吐く。呼吸のリズムが私をいずれかの世界へと導いてくれるだろう。私は世界を見る。私はどんな崩れた世界も見たい。そして、そこからひとつの希望を生み出すのである。それが、私の役割だと知っている。私は私に課した大きな使命をなお、悲しみとともに、見つめている。どこまでいっても、そこには何もないかもしれない。どこまでいっても、そこには、始まりはないかもしれない。私は強く息を吐いて、その身を震わせる。今こそ、今こそ。
「負けるな。負けるな」
私のための声が辺りから聞こえる。
「負けるな。負けるな」
私のための声が私から聞こえる。