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← トップページへ戻る 日記

2025年1月23日朝

 今日は何を書こうかと1人悩ましく考える。昨日の夜は、すっきり眠ることができた。だが、いいようのない寂莫感のようなもの、いってみれば、むなしさのようなものを感じて、苦しい気持ちに流れていってしまいそうなところを、なんとか抑えている感覚といっていいだろうか。朝の目覚めはおそらく早かっただろう。だが、朝は布団の中にくるまって、出なかった。結果的に8時半ころまで布団の中に入っていて、そこから1階のリビングにおりていった。パンをあたためてもらっていて、とてもありがたいものだ。あたたかく美味しいパンをいただいて、コーヒーを飲む。あたたかいおいしいコーヒーだ。2階の自分の部屋に持ち上がって、堪能する。(味わいつくす、味わい深める)。そして、チャットアプリの返信を行う。

 のんびりゆっくりペースで、続けているやり取りだが、どうなるか、わからない。私の弱さ、意気地のなさに、相手はきっとお手上げしてしまうだろう。見捨てられ感というか、いつかわたしは見捨てられるだろう、という感覚が常にまとわりついている。そのせいか、先にこっちから、しんどくなって、関係をやめてしまうことが多々あるようだ。定期的に人間関係をリセットする人もいると聞く。

 わたしはチャットを通じて、人々とつながりができている。そのことに、とても喜びを感じている。一方で、その関係性においては、しんどさやストレスを感じる場面もけっこうあり、精神的に不安定な場面も多々ある。どれほどチャットをしようと満たされない気持ちになるのは、どうしてだろう?と思う。あれだけ楽しかったチャットも今では、その楽しさが半減したかのようだ。(依然として、チャットはしているのだが、以前ほど楽しめない。話す意欲がわかない)どうしたのだ。疲れか?一時的なものか?私にはよくわからないが、奇妙な慣れみたいなものも、あるのかもしれない。慣れが私にとって当たり前でないことを当たり前のように思わせてしまう。

 私は私を肯定するために、何をすべきか。私の現在、私の過去、私の未来を、しっかりと見つめて、見つめること。見つめて、体感すること。見つめて、実感すること。良かった。本当に良かった。私は生きている。その生きている実感をどこまでも、感じたい。独特の文体だが、実際はきれいに書こうとしなくていい。ただ、思うままに、生きていく。生きていくのだった。そして、その結果は、どうなるか?混乱してるのか?どこまでも混乱しているのか?思考が外れていく。どこか、遠いところに外れていく。そのような感覚を持っている。行こうか。行こうか。あそこに行こうか。私は何度も思う。しかし、同時に怖さも感じている。私は今日遠出する(いや、違う図書館に行く日)である。電車で4駅くらいの図書館に行こうと思うが、どうなるだろうか?

 私はきっと生きている。生きている。まだまだ生きている。私は、まだまだ生き返る。生きている。私は生きる価値がある。すべての人に生きる価値があるのは、昨日こころのホッとチャットで確認できている。ありがとう。ありがとう。

 前、連絡を断っていた人と再び連絡をとることを試みる。恋愛関係のような圧を感じて、連絡を断っていたのだが、実際、やはりそういうことだったらしい。私が彼女を好きだというのは、どうなのか、私にとっては青天の霹靂だったが、彼女が私を好きだというのは、なんとなく感じるところではあった。そこで、またしんどくなって、連絡をやめてしまったのだが、再び、連絡を取ろうとしている私の心境や、いかに?と思う。私は彼女が好きかどうかわからないのに、連絡を取ろうとしているのか?彼女から連絡が返ってくるかは、未知数。いろいろな人がいるなあ、と。私が優しかったらしいのだが、そんなことした覚えはなく、ただ、話を否定せずに聞いてあげただけなのだが、そのことそのものが、なかなかない人にはない経験だったのかもしれない。

 私は他人を否定しないが、他人からも否定されえない。

 そう。私は他人の批判などめったにしないが、他人からの批判も受けつけない。そういう人間だったはずだ。そういう男だったはずだ。男だったというところにジェンダー的なものを感じるのは、どうしてだろうか?私はやはり旧世代の人間なのだろうか?他人の批判をする人は他人から批判されるのを気にするらしい、というのは、昔も昨日もチャットで聞いた話なのだが、私の場合、それが、あてはまるのか?と考えてみるに、私は私への批判を猛烈にしていたので、私が他人の批判をしないというのは、間違いなのだと気づかせてもらえた。

 私は私の批判をせずに私は私を肯定するように、今の認識も、過去の認識も、つくり変えていかなければならない。そのための、私がいる。強くなれ!ニル!強くなれ!ニル!強くなれ!ニル!繰り返し、打ちこむ。強くあれニル!強くあれニル!繰り返し動かないと、繰り返し打ちこまないと、自分をたまっていられないような気がする。悲しみ、怒り、孤独、一体、この気持ちは何に近いのだろうか?昨日の夜からずっとこのような気持ちになっている。神経過敏になっている面もあるのだろう。朝私のことを母がじっと見ていた気がする。そのこと自体は、おかしくないのだが、いつもと違う違和感は感じた。

 しかし、私の感覚、あながち間違いばかりでもないことが、今回のチャットにおいては、証明されたので、すべて自分の自信を失わせるものではない。

 いかに、自信が消えていくかは?自分の認識が間違っている。自分の判断が間違っている。ということ(幻聴だったり、幻覚だったり、妄想だったり)で、その自信そのものがゆらいで、壊れていくのだ。私は生きているのだが、その生きている世界が、私の生きざまそのものであるはずだ。何かよくわからない浮遊城をさまよっているようだが、そこまで行ってどうするか、こうするか?悩みは大きい。

 モーニングページもいつの間にか、終わってしまったし(きっとしんどかった毎朝というのが、できなかった?忘れ去ってしまった?)、三日坊主になっていることも多いが、三日でもやったことはやったことで、それで、良いだろう。進歩は進歩。やめたとはいえ、やれたことは進歩だ。やれたことは前に進んでいる感覚である。自分を肯定しろ。自分を肯定しろ。自分を肯定しろ。自分をほめてあげよう。自分自身を見つめている。何かあたたかいまなざしで、私は私を見つめ返す。

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