今日の調子もいまいちである。何か気持ちが落ち着かない。昨日の散歩の帰りに老婆2人が家の前で何やら話していたのも気になっている。公園でも、笑い声が聞こえた気がした。調子はよくはない、とはっきりとわかりつつある。わたしは良い状態をへて(実際良い状態だったとしても、対外的には、恐怖心が勝る)、今一度停滞期にあるようだ。自分自身、めちゃくちゃ悪い状態というわけではないのだが、しかし、良い状態とも違う。特にチャットを始めとした対人関係において、強いストレスを感じているのかもしれない。
わたしの中には何もなく空白しかない、と思いつつも、やはり何かあると信じざるをえない。それが何なのか私にもわからない。だから、それを埋めるために空白を少しずつ色のあるキャンパスへと変えようとしている。楽しみ。そう。その空白を楽しみや喜びで、塗りつぶしたいと願う。不安や恐れではなく、自分への愛によって、それを成し遂げようと思った。今もそう思う。そうだ。いくんだ。進むんだ!と私は私を鼓舞していく。勇気づけることの意味を私は知っているだろうか。わたしは何も知らないからこそ、わたしは空白だからこそ、わたしを埋めていく何かを見つけられるはずだ。
昨日書いた「海の向こうへ」(だったかな?)は、私の現実の行動とフィクションをあわせたようなものだったが、結局、よくわからないものになってしまった。むしろ、書いていて、楽しくなかった。この1点が楽しみに興じる1人の人間行動として、失敗したのだと感じた。書いた後も、何か、不安感がぬぐえずに、ドキドキしながら、反応を待っていた。そう。あれほど他人のことは気にしないといえども、やはり、気にしている自分がいるのは、確かだ。毎日反応をくれる人もいて、とてもありがたいのだが、実際のところ、私の小説をどう思っているのか?は、わからない。そのわからない部分を埋めようとして、知ろうとして、かえって苦しくなってしまう部分があるのも、確かだ。わたしはもっとわからないことをわからないまま保持する能力を高めなければいけない。この世はわからないことだらけ、そのわからないことを埋めていく作業のひとつが、小説になってくるのだ。それだからこそ、書き続けられるのだ。それだからこそ、書く意味を見出すことが可能となる。私の文体を少しずつ、つくり変えていくように。私の心を少しずつ、つくり変えていくように。
さて、先端をおしりの穴にいれて、薬剤を出すタイプの痔の薬は引き続き続けている。今日久しぶりに排便して、出血はあったものの、わずかだった。排便後に朝使ってもいいと書いてあったので、さっそく使おうと思う。便も思ったより硬くなかったかもしれない。水酸化マグネシウムがきいているのかもしれない。この調子で良くなっていくように願うばかりだ。
昨日は興奮して、ドキドキして、頭がカッカして、なかなか眠れないかと思ったが、オーディオブックのオフタイマーが切れてから、わりあいすぐに寝つけたようだ。そこから、7時30分くらいに起きて、ごはんを食べた。クロワッサンがとてもおいしかった。
何か外に出た時に、人々が私を非難するような目で見ている気がしてしまう。それは、それで、調子が悪いときなんだろうが、なかなか、そのことに慣れなかったり、気にしてしまうのも問題である。便の出も良く快調(快腸)なのだから、それでいいはずだ。今日は1日家にいようかなとも思う。だが、このまま出れなくなってしまうのではないか?という恐怖もある。お日様に1日1回はあたるようにと、行動を心掛けていたのだが、やはり午前中行ったほうがいいのかもしれない。
外の感じ方で、調子の良しあしが決まるため、昨日の感じは、決してやはり調子は良くないと感じた。実際問題、非難する人々がいたとしても、極度に反応したり、感じたりしてしまうのは、問題である。受け手である私の問題である。初詣に行ってみてもいいかもしれない。歩いて行く。歩いて行く。昨日行けばよかったかな。図書館に行くついでに行くか?それとも、別の場所にお参りに行くか?どうするか?ですね。
最近は音声よりも静寂を好むようになっているのか?ちょっと、アクセル全開しすぎて、疲れているんだね。私自身、もう少しいたわってあげなければならないね。