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← トップページへ戻る 日記

机(パソコン)に戻ってきた

 最近机に座って、パソコンをする時間が増えた。前までは寝そべってスマートフォンを触っている時間が多かったものだが。一体、どんな心境の変化だろうか。薬をレキサルティに変えた(というか現状はレキサルティを追加している状況)ときから、調子は良いと感じていて、その時辺りから、いろいろなことを始めたり(プログラミングや本を読む)、パソコンを机でするようになってきた。

 段階としては パソコンを床から机に 体を布団(床)から机へ

 この流れの系譜が正当なものなのだろう、と思う。さて、このように最近の調子の良さから少し、調子の陰りがみえた今日の朝である。チャットを1時間ほどして、さっぱりやめる。どんな話題かは、相変わらず、とっちらかっていたし、奇妙な交錯や乱雑が見られたが、おおむね個人的には、楽しいチャットだった。

 元兵庫県議が誹謗中傷を理由に亡くなった(自殺なのか?)件について、母が「何があっても生きていないといかんよ」と言ってくれたのが、少しうれしかったと同時に、あの妄想めいたことは事実であった、と思わずにはいられない。つまり、私のことを嫌っている多くの人がいて、もちろんそうでない人もいる。(そうでない人もいる、というのが、何よりも大事なことだ)そのことに思いを致すべし。とにかく現在の兵庫県知事に関しては、死者がこれで2人目ということもあり、何か黒いものを感じざるをえないのが正直な気持ちだ。母も過剰に反応している気がする。これから、兵庫県がどうなるか、よくわからないが、平常平和でいってほしいものだ。ただ、今回またこうやって死者が出たことによって、かなりの部分、また蒸し返される部分もありそうで、また報道合戦も強くなりそうな予感。私も嫌われていようが、生きていることに感謝と、崇拝の念を持ちながら、生き抜いていく所存である。決して、自ら命を絶ったりしないように、これからも自己肯定感、自己価値感、自己安全感、自己信頼感を高めていきたい。私はできる、これから、おおいなる一歩を踏み出すのだ。そして、大いなる結末を迎えるのだ。私は終わらない。この先も、これからもずっと。

 そんなこんなで、話題は少しそれてしまったが、今日は少し頭的にはズシリとした重みが加わっているようで、少し疲れのようなものを感じている。話題ごとに記事もわければいいのに、と思うが、これもひとつの流れだろう、と考え、そのまま同じ記事に複数の話題が入る状態を許している。クリシュナムルティの可能性についていろいろと考えているが、どうやら、意識そのものをいかなる信念、信仰ももたずに思考しないということなのだろうか?私もいまいちついていけていないが、少しずつ読み進めていきたい。「英知へのターニングポイント」というタイトルの本である。頭の重みはしばらくはとれないのだろうか?どうなるのだろうか?一体なぜ、頭の重みが復活したのか?昨日たくさん夢を見た記憶がある。特に悪夢ではなく、何気ない風景が(夢としての風景過去)が流れていたように思える。だが、その中で、頭そのものに疲れのようなものを確かに感じている自分がいた。そして、案の定、目が覚めても、その疲れ、頭のズシリ感はそのままだった。だが、一方で、チャット自体も気分よくできたし、大きな気分の乱れはないかもしれない。ただ単に頭がズシリと重いような感覚を持っているだけなのかもしれない。現にこの記事も書こうと思って、問題なく、よどみなく書けている。そのことそのものに、感謝して、あたたかいまなざしを私自身に送ってあげようではないか。そのこと慈愛、自愛することそのものが、私を強くしていく。自分で、自分を愛すること。自分で自分を守ること。そのことたちが、私をより強靭で、強い人間にしていくだろう。時間はかかるかもしれない。自分で自分を高める。何もしない自分、何もしない人間そのものをもっともっと、もっともっと肯定しなければならない。私は現代社会の中に住んでいるので、現代社会に通底する意識そのものを、好む好まざるにかかわらずもっているはずだ。そのことを良い悪いと評することはないが、それが、いったんレールを外れた自分を自分自身で攻撃する材料となりうることが、非常に残念でならない。私は私のままで、人の意見も聞きつつ、私は私のままでいることになる。私は私である。それが事実。それが真実である。だからこそ、わたしはわたしのわたし性を突き放していく。わたしのわたし性を手放していくようになるだろう。

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