わたしは生きている。この世界をすべるように生きている。つるりといかないように気をつけなければならない。人々の笑顔が私の頭の中をよぎっていく。いや、違う。人々の、、ではない。一番大好きな母の笑顔が私をよぎっていく。いや、現実にそれは、私の世界で起こりうることなのだ。だからこそ、わたしは、この世界をまだ愛することができるのだろうか?誰かを愛する気持ちを持つことができるのだろうか?わたしの中で、大きなうねりが起こっている。わたしの人々が、わたしを苦しめるのと同様に、わたしの人々が、わたしを喜ばせてくれるはずだ。生きていくことの意味を少しずつ考える。わたしは沈んでいるひとつの蕾を感じている。わたしの中の深い深い部分から、イメージをかたどっていく。どれほど、強くあろうと、どれほど、弱くあろうと、わたしは生きていくことになる。他人事のようだが、わたしは生きたいと今では思っているからこそ、世界に対して積極的にかかわろうとしているのかもしれない。どこまでも、続く地平線の果てにわたしより大きな雲がわたしを包むだめに準備されているというのに。なぜか、わたしはむなしくなる。この世界そのものを感じたときに、どこか奇妙なむなさしを感じる。語尾の長さが、わたしを考えさせる。何か冗長なようで、何か長い物語、長い夢をずっと繰り返し聞かされているようなものだ。知っているだろうか?わたしの中に、その物語の萌芽があることに、このような難しい言葉を使うことに慣れすぎている。わたしはある意味豊かな平原から、向こう遠くに虹が見えているようでもある。わたしは知っているだろう。その世界が、どうしても、そこにあるという強い意志を持っていることを。そして、その世界が、わたしにとって、静かな森のような、静かな図書館のようなやすらぎを持っているのを望む。希望だ。それが、希望なのだ。わたしは、下のほうにあるものを上へ持ってこようと、努力しているが、何も浮かんでこないようでもある。わたしは自殺した統合失調症の人の話をオーディオブックで聞いた。そのときに、感じたもの。そのときに、感じたショックのようなものが、わたしの中で、同じ病気の人は仲間だ、と思っているからだろうか。人々の 仲間としての意識。その根本が私の中にまだあったことに驚くと同時に、少し安心しだ。わたしは何かの集団に所属しているという幻想(それが、幻想かどうかは、さておいて)にひたって、孤独感をやわらげている。何度も繰り返し使う言葉がある。それが、やわらげているという言葉だ。わたしの中で、大きな部位を占めるその無意識の選択は、わたしをどこへ持っていくのだろうか?地上の楽園にでも、導いてくれるとでもいうのだろうか?