私は人と話すのが怖くなっている。勇気が出ない。弱くなっている。昔より、ずっと弱っていると感じる。失ってきたものもいっぱいある。だが、同時にそれは、ひとつひとつ何かを得ているということだ。そう信じたい。失ったもの((家族、自信、健康))いろいろある。だが、一番失ったものは?なんだろう?考えても考えても何か形にならないもの。何か得体のしれない何か。こういう言葉で、いつも表現から逃げているような気もする。 どうしたものか?私自身の弱さについて克服することは、難しいかもしれない。私であれ、どんな私であれ、老いていく。朽ちていくものなのだから。暗闇から明るい光が顔を出す日は来るのだろうか?私はひとりの人間として、何を求めているのか?何を求めていないのか?それさえもわからずに、ただ漂うままである。私はただのただようクラゲのようなもので、たまにしびれを放つかもしれない。そして、私のメンタルはついにとうふのように柔らかくなってしまっている。どこまでも、おいしいあのとふだが、実際はとてもとても柔らかな食べ物である。私の精神は人間にとってたべものであるのか?ああ!どれほど言ったとして、私の言葉に意味はないのかもしれない。混乱の中にただ、無常が存在するというだけなのかもしれない。私は、きっと世界を調停するだろう。しかし、その姿はもはや人としてではないかもしれない。変なことを言っている。まさに変人である。狂人である。私はまた自己否定に走ろうというのか?また、自分で自分を否定する道に入ろうというのか?私は人として、こんなにも出来損ないなのに、両親はあたたかく接してくれる。感謝。感謝。ただ、ただ、感謝。だが、両親の負担にもなっている。両親の難しいもの にもなっている。私という存在が、言葉をとおして、立ち上がっていく。どこまでも、遠く、遠く、遠くから、立ち上がっていくのか?それとも、どこにもない世界からどこかへと行こうというのか?どこにも行く場所などないというのに?連続した論理の中で物事をとらえることは、もはやできない。私は、ひとりの人間として、生きていく。ひとりの弱い人間として生きていく。どれほど弱くどれほどもろい存在だとしても、生きていかなければならないと感じる。どこまでのことを私はしなければならないのか?何もやる気が起きずに、力もなんだかおちてきたような気がする。だが、実際は、外出したりして、疲れているだけなのだ。私は、とても疲れている。
そう、それだけだ。改行しないものとして、ただ、それだけを語る資格もない。私自身を学べる人として、規定することもできない。私は私であるが、ただ、私ですらない。私は私を定義できない。私は私から逃れられない。私は私ではない。私そのものと、私が私に対して持つイメージは違うものなのだろう。きっと、いや、そうに決まっている。だからこそ、私と私の間に空間があいてしまって、むやみやったらに、遠く感じてしまうのだ。さあ、今日から新たな門出となるだろう。どうしても、新しいことをしようとしてしまうのだろう。内面的問題が、私の心理的な葛藤の問題を消し去っていくのだから、そこにこそ、大いなる問題がひそんでいる。ここにある至極当然な心持ちは、どこにいっても、空白でしかない。そう、白い大地の中にぽっかりと穴が開いているだけなのだ。いれかえるだけ、心と体をいれかえるだけ。そう心がけよう。そう物語を規定しよう。私は私でしかない。私は私ですらない。知っているだろう正確性がなくなり、だんだんとミスしていく様を。だんだんと沈んでいく様を。私は私の物語を規定するものたちをひとつのかごにいれたのだった。そのかごはみるみるうちにふくれあがって、大きな気球となって、飛んで行ってしまったのだ。私は私ですらない。私は私である。私は私のものである。私は私であるためにこそ、ある。