私はかけがえのない何かを失おうとしているのか。同時に、それは復活をも意味していた。わたしという人間の人間性の回復である。私はどこまでいっても、遠い地というものを追い求めている。何か意味のわからないことを、またつぶやいているな!と思うのは、まったくその通りであり、わたしも異論はない。
形式の変化をつけるために改行を行ってみた。そこで、またひとつリズムが崩れたような、それとも新たに更新されたような気持ちになる。私は久しぶりにキーボードに向かって、小説を書いているといえる。私はわたしという一人称を捨てて、今私に立ち戻ろうとしている。子供のような自分から大人になった自分に変えようとでもいうように。変えようとでも、するように。いよいよ、日記的な色彩を帯びてきたわたしたちという庭の木の第30回になるが、なかなか難しい局面になってきた。アクセス数は伸びずに、巨大な機構そのもの(外的反応というもの)にとらわれている。つまり、自意識が、他人をコントロールしようと躍起になっているそんな無意味な症状性を誰に告げ知らせたら、この気持ちはおさまるのだろうか。わたしはあなたを見つめる。わたしはあなたを考える。わたしはあなたを誰よりも愛している。このあなたというのは、どこにいるのか?わたしがつくりだした幻想なのか、幻影なのか。わたしは私をふりかえる。わたしはわたしの過去を見つめていく。わたしは昔どんな気持ちを持っていたのか、あの瞬間に何を感じていたのか?わたしはわたしであり続けるためにわたしはわたしのものを把握する必要がある。所有権のようなものか?わたしがもっているものとは何か?よくよく考えていく必要がある。わたしは何者か?私はどこにいるのか?この部屋にいるわたしは何者か?この部屋にいて何をしているのか?
このテーマに関して、何らかの??いやそんなことはない。これは小説だろうか?いや、そんなことはない。うーん?どこまで行くべきなのだろうか?私はどこまで行くべきなのだろうか?
そんなわけでわたしたちという庭の木という小説そのものが、ひとつの形をなしていたのが、いつの間にか崩壊していたのかもしれない事実を感じる。そして、わたしたちという庭の木の物語は終わりを告げるのか?いや、告げはしない。これからも続いてくのだ。続き、続けていくのだ。継続されていく圧倒的なビジョンのなさ。継続されていく他者性の皆無度。いいじゃないか。この世界が、どこかへ行ってしまう前に、私はこの世界の宝物を見つけようじゃないか。もちろん私にとってのものだ。私にとっての宝。