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← トップページへ戻る 日記

深く掘ると?まずい?

 わたしの中を深く深く掘っていくと、あまり良くない、と昨日先生に言われた記憶がある。確かにチラッとおっしゃったが、幻聴や妄想ではないと思う。ここまでいくと、何度も繰り返し聞かないといけなくなってしまうので、次の診察日まで、覚えていたら、聞いてみるのだが、大体の場合、これこれを診察の時に聞いてみようと思っていたとしても、大体の場合忘れてしまうので、やっかいな問題ではある。

 仮に深く掘るのがよくないとして、根っこの部分を克服してこそ、、?いや、そうだ!思い出した。深く探っていくと苦しいよ、と言ってくださったのでした。わたし自身、文章を書いていること、小説を書いている事実を先生に言っている。先生が覚えているかは、わからないが、少なくともわたしが病気について、他の人より積極的に調べたりしているのは、わかっているだろう。

 確かに内省的に自分自身で、何か苦しい原因だったりを突きつめようとする傾向にはある。それは、確かである。

過去の自分の言動、自殺しようとした経験、母に止められた経験、職場での自責の念、いろんな記憶が舞い上がっては落ちていくようなものだ。この言葉は、何の話に出てきたが、落ちて、つぶれてしまったようなものだ。高く上がりすぎたゆえに落ちて、壊れてしまったのだ。わたしは自分を高く高く見積りすぎて、本当の自分の力、自分の弱さというものにふたをしてきた。自分を責めるのは、良くないし意味のない行為だと思う。一方で、自分自身を弱い1人の人間として、完璧でない1人の人間として受け入れることは、わたしにとってひとつの宝物になるだろうという気はする。わたしは〇〇なのに、〇〇できなかった。という構文は、なぜ問題になるかというと、〇〇という部分で、自分をまとめようとしている。自尊心を高めようとさているからだ。そういう方向性で、自分の価値観を決めないことこそ、私に求められていることなのだろう。〇〇な自分という決めつけを一度まっさらに整地して、いまを生きている何者でもない一つの生命として、わたし自身を決める。過去も未来もなく、ただ、ここにあるわたしとして、わたしを位置づける。それだけで、わたしはひとつの今いるわたしとして、今あるわたしとして、生きていくことができるはずだ。

 深くは掘っても、わたしの世界観は変わらないのだろうか。人に対する警戒心、恐怖心、そこから派生する攻撃性やもろさは、一体どこにいくというのだろうか?

 具体性と抽象性の行き来する言葉の世界において、何を自分自身のイシズエとなすべきか、わたしは考える。考えても考えても、答えの出ない問題について、わたしはまた考えているふりをする。なぜ、ふりをするか?考えるだけのエネルギーがないから、考えるだけの方法がないから、考えるだけの意欲がないから、考えるだけのパワーがないから。考えるだけの自分がないから。わたしはいつも、こんな言葉で自分をしばってきたのだ。それだけ漢字を使ってきた。感じる、を使ってきた。ダジャレのように浮き舟のように言葉が流れていく。流れた溝は早く遠くへ運ばれていく。何か物が詰まっていればなおさら、水はたまり続けるだろう。やがて水がくさってしまわないように気をつけなければならない。人生というものは、よどみなく流れる川のようなものだから。人々は美しく生きるが、わたしはみにくく生きているようでもある。あくまで他人から見て、という意味だが。

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